このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

  史跡吉川氏城館跡 国史跡

     きっかわもとはるやかたあと

   吉川元春館跡

 <広島県山県郡北広島町海応寺>

吉川元春館跡をたどる

館跡地図
 
(現地説明板に追記)

 
館跡地図「現在地」から見た正面石垣と門跡

 
館跡地図の石切場
◆石切場跡◆
 東西7m、高さ約4mの石切場の跡。ところどころに長さ10cm、幅8cmの石切の工具の痕(矢穴)が残る。
              

◆正面石垣◆
 中央の幅8mの門跡の北側に50m、南側に20m延びる高さ約3.5mの堂々たる石垣。
間隔をあけて据えた大きな立石(A)の間に平らな石を横積み(B・C)にする石積技法。
                     
 このような石の積み方は、万徳院跡・二宮氏館跡・松本屋敷跡・今田氏館跡など、この地域にみられる独特な積み方で、古文書に記されている「石つき之ものとも」と呼ばれていた石垣築造の専業職人達が築いたものと考えられる。
 
大きな立石と横積みの石垣

 
間隔をあけて大きな立石を置き、その間に平らな石を横積みにする石積技法。

  
正面石垣の門跡
◆台所跡◆
 発掘調査で見つかった囲炉裏や窯跡から、台所跡であることがわかりました。中央の土間(右下写真)を挟んで囲炉裏のある西側の板間は調理場、東側の板間は配膳場と推定できます。
 東側の建物は、米・味噌・醤油などを貯蔵していた付属室(倉庫)と思われます。館からみつかった柱や屋根材をもとに、当時の台所を再現。
 
右の建物が台所、左の建物は付属室

 
復元された中世の台所(右側)と、左側は付属室(倉庫)
(現地説明板より)
◆門・築地塀跡◆
 長さ18mの築地塀と門の跡です。門跡は幅2.0mで入口に階段があります。内側には西側を入口とする東西13.5m、南北11.75mの書院造りの礎石建物跡があります。礎石の抜き取り穴から安産のお守りと考えられる小犬の土製品が見つかっています。
 
門の跡
 階段奥に点在する石は、書院造りの礎石建物跡。

 
築地塀跡
 石垣が横に積まれている部分。
◆庭園跡◆
 主庭園は築山と池からなり、東西と南の一部が築地塀で囲まれていました。南側の建物跡から観賞していたものと考えられ、滝石組と三尊石風の石組が主景となっています。小庭園は築山の東側を鉤形に削ってつくられ、石組だけで構成されている平庭です。石組や敷石遺構が良く残る中世末期の秀逸な城館庭園として、平成14年国の名勝に指定されました。
 
池の背後に三尊石、その右上に滝石組を配した庭園。本来は会所とよばれる建物があり、そこから観賞していた。

◆堀跡◆
 館の南側を区画する堀跡で、幅約7m、深さ約1.5mの規模があります。東側は岩盤を避けて、南側に屈曲しながら自然の流れになっています。堀の中からは土師質土器や備前焼壺などがみつかっています。堀南側の平坦地にも掘立柱建物や溝とともに土師質土器、箸などの生活用具がみつかっており、堀の外側でも人々が生活していたことがわかる。
  
岩盤を避けて自然の流れになっている堀跡。建物は復元された台所と付属室

 
水溜跡
 
土塁と正面石垣の間に造られた通用口

 
井戸跡
 
便所跡

 
湯殿跡
 
吉川元春・元長の墓所

 
海応寺跡
 天正14(1586)年に死亡した元春と、翌天正15(1587)年に死亡した元春の長男元長の墓。

 
松本屋敷跡
 吉川元春の妻の屋敷跡と伝わる。石垣・門が残る。
 ■駿河国(静岡県)を本拠としていた吉川氏は、鎌倉時代の終り頃に大朝本庄(北広島町大朝)に地頭として入り、室町時代には安芸国の北部を中心とする地域を治める国人領主に成長します。
 その後、戦国時代には周防国の大内氏と出雲国の尼子氏との間に立たされましたが、毛利元就の次男である元春を当主として迎えることにより毛利体制に入ります。吉川元春は弟の小早川隆景とともに毛利氏を補佐し、おもに山陰攻略に貢献します。

 1600年関ケ原の戦い後、吉川氏は山口県岩国に移りますが、それまでの吉川氏に関わる遺跡が山県郡北広島町に分布しています。そのうち、駿河丸城跡、小倉山城跡、日山城跡、吉川元春館跡、松本屋敷跡、万徳院跡、洞仙寺跡、西禅寺跡、常仙寺跡の9遺跡が史跡吉川氏城館跡として国の史跡に指定されており、小倉山城跡、万徳院跡、吉川元春館跡の3遺跡は広く一般へ活用するために整備し、歴史公園として公開しています。(現地説明板より)

■吉川元春(1530~86) 元就次男 享年57
 1547年(天文16)、吉川興経(おきつね)の養子となる。父元就の中国地方平定に、弟の小早川隆景(たかかげ)とともに活躍。元就の没後は、宗家毛利氏の発展に寄与する。吉川・小早川氏を「毛利両川(りょうせん)」と呼ぶ。豊臣秀吉との和議後は、その下風に立つことを嫌い、引退して家督を元長に譲ってしまった。

吉川元春館跡周辺図




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■戦国大名吉川元春が1583(天正11)年頃、隠居所として建てた館跡。

■館は土塁と石垣で区画された間口110m、奥行80mの範囲で、湯殿・台所・番所・便所などの建物跡、井戸や庭園跡などの施設と、輸入陶磁器・国産陶器などの土器類、木製品、石製品など当時の生活用具や建築部材が数多くみつかっている。

■山県郡北広島町には吉川氏に関わる遺跡が分布しており、そのうち、吉川元春館跡は、史跡吉川氏城館跡として国の史跡に指定されて整備し、歴史公園として公開されている。

■館跡は、背後に低丘陵を控えた志路原川(しじはらがわ)の河岸段丘上にあり、要害の地であった。

■しかし、元春とその子元長の死後、当主となった元春三男広家が1591(天正19)年、出雲国富田城に移ったため館の機能は失われ、元春の菩提寺として建てられた海応寺の寺領となる。
1600年に吉川氏が岩国へ移封された後は完全に廃墟となる。

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