このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

国登録有形文化財 

旧岡山偕行社  京橋火の見櫓  京橋水管橋
 総合グラウンドクラブ(旧岡山偕行社)(岡山市北区いずみ町)
 
 
 この建物は明治43(1910)年10月12日、旧陸軍の将校の社交場「第十七師団岡山偕行社」として誕生しました。
(ここ岡山県総合グラウンドの地は明治時代から太平洋戦争中まで練兵場でした)

 戦後、進駐軍に接収されたあと、昭和25(1950)年から昭和42年まで岡山労働基準局の庁舎として使用されました。昭和43年に元の位置から約100m西に移築されて合宿所となりましたが、老朽化などでその後約10年間閉鎖されていました。再びにぎわいが戻ったのは、平成2(1990)年。保存・再生の改修により、園内の憩いの場「岡山県総合グラウンドクラブ」として復活しました。そして、平成15(2003)年、現在の体育館建設のため、さらに西へ100m移転され現在に至っています。

 県下では数少ない明治後期を代表する近代洋風建築の一つであり、平成24年8月13日に国の登録有形文化財に登録されました。 (現地説明板より)
京橋火の見櫓
(岡山市北区京橋町)
           
●2006年1月20日 高さ21.1m、四脚の山形鋼製の鉄塔である火の見櫓は、周辺の京橋(日本建築会推薦土木遺産/日本百名橋)、京橋水管橋(国登録有形文化財)と並んで岡山の近代化を代表する景観であると評価され国登録有形文化財となった。後方の建物は岡山県庁。

■1924年(大正13年)頃よろず屋を意味する「万納屋」こと坪田利吉(1890〜1944)は、岡山市内を大八車で行商に励み私財を投じて火の見櫓を寄贈(その数は12基に上り4基が現存する、中でも京橋火の見櫓は最大規模である)

■それから80年余り火災や水害に加え、1945年(昭和20年)の岡山空襲でも急を知らせ、岡山の人々の暮らしを見守ってきました。1989年(平成元年)9月より住民有志により、京橋朝市が開催され、地域の活性化のシンボルとして注目される。(毎月第1日曜日に沢山の屋台が立ち並び、賑わいを見せている。)

■2004年老朽化が進み撤去の話が持ち上がりましたが、川崎町町内会を中心に内山下連合町内会から市に保存を求める運動が起こりました。2005年9月には望楼の屋根の補修及び錆落とし、そして塗装を行い銀色に輝く美しい姿を取り戻しました。2006年1月20日登録文化財と認められ、ひとつのシンボルとして旭川と共に、街の景観に溶け込んでいます。(文は現地案内板より転載)
京橋水管橋
(岡山市北区京橋町から中区西中島町)
            
京橋(右側の橋)と並行して旭川に架かる水管橋(すいかんきょう)
 全長131.2m。創設時(明治38年)の建築。橋脚は五角形平面のコンクリート造り4基で、「水切り」及び四隅に流木等の衝突による破損を防ぐため、鉄板を取り付けている。水道用鋼製橋で最初期のもので、現存する施設で日本最古のものである。

水管橋の4基の橋脚


下から見た「水管橋(左側)」と、日本百名橋の一つである「京橋」


京橋水管橋

水管橋・火の見櫓周辺図

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