このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
復興天守と続櫓(右奥の多聞櫓) | |
小倉城の歴史 中世以来の古城。室町時代以後、大内氏・大友氏らによる攻防の舞台となり、戦国時代には筑前宝満城主高橋氏、その後、豊臣秀吉の部将毛利氏が入城。本格的に築城したのは、関ヶ原合戦の功労で入国した細川忠興(ただおき)で、慶長7年(1602年)城を大改修した。8年後の慶長15年(1610年)に完成した4重5階の天守は、最上階が下層より大きく張り出した独特の様式で、「唐造り」と呼ばれた。 細川氏が熊本に転封されると、譜代大名の小笠原忠真(ただざね)が寛永9年(1632年)、播磨(兵庫県)明石から入封。小倉・小笠原藩は、将軍・徳川家光から九州諸大名監視という特命を受けていた。以後10代を数えた。 小倉は九州各地に通ずる街道の起点として重要な地位を確立し、同時に小倉城は一層充実し、城下町も繁栄した。しかし、天保8年(1837年)城内から発した火災によって全焼。2年後に再建されたが天守閣は再建されなかった。幕末期になると、小倉は長州藩を攻める第一線基地となり、その中で小倉と熊本藩は勇敢に戦うが、他の九州諸藩の兵には積極的な戦意がなく、ついに慶応2年(1866年)、自ら小倉城に火を放ち田川郡香春に退却し、小倉は長州藩領となる。 現在の天守は、昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリート造で再建。4重5階で破風が付けられ旧容とは異なる。 【訪城日】平成30年11月 再訪問 | |
小倉城案内図 中枢部は、本丸を中央に配し、北に空堀を挟んで北の丸、南に一段低く松の丸が置かれていた (小倉城案内図は現地説明板に追記) | |
<北九州市役所展望室から望む城跡> 小倉城天守周辺 平成30年11月再訪問時、天守はエレベータ設置工事、展示リニューアルのため休館中でした。 平成31年(2019年)春には「天守」と、おもてなしステーション「しろテラス」がオープン予定です。 | |
本丸跡周辺 | |
【小倉城の現況】 <門跡> | |
虎ノ門口跡 大手門、西の口門と並ぶ正門の一つ。 | 大手先門跡 大手門へは、この門をくぐり向かう。 |
大手門跡 城の玄関口。巨石を多用した造りとなっている。右後方は天守。 | 槻門(けやきもん) 藩主、上級武士が通行できた門。 |
鉄門(くろがねもん) 一般武士の登城門。石段左側は当時の石垣。右側には、写真右の井戸跡が残る | 井戸跡 |
西の口門 二の丸側から見た門跡。裏門になり、一般武士の通常の登城口で、二の丸から本丸と松の丸へ入る門。後方は、北九州市役所。 | 水堀越しに見た西の口門 |
多聞口門跡 茶屋「つき見亭」(本丸)から八坂神社(北の丸)に抜ける通路にある。 | 北口門跡 鳥居をくぐった突き当りの所が門跡。下屋敷から北の丸へ通じる門。 |
<空堀> (本丸と北の丸の間にある堀) | |
本丸(左)と北の丸(右)の間にある空堀 左側の本丸石垣が、右写真の石垣になります。 | 本丸北側の石垣 Y字型石垣の右は毛利勝信時代、左は細川忠興時代の石垣。右上の櫓は、着見櫓を復原した櫓。 |
<水堀と石垣> (小倉城案内図ⒶとⒷから見た水堀と石垣) | |
本丸西側の水堀と石垣(小倉城案内図Ⓐ) 西の口門跡からの眺め。 | 本丸(右)と北の丸(左)の西側の水堀と石垣(小倉城案内図Ⓐ) 新馬場から見た水堀と石垣。石垣の窪んだ所が多聞口門跡で、北の丸の建物は神社、本丸の建物は着見櫓跡に建つ茶屋「つき見亭」となる。 |
北の丸石垣と水堀(小倉城案内図Ⓑ) 本丸西側(Ⓐ)から北側(Ⓑ)にかけての水堀と石垣が旧状をよく残している。 | 北の丸(右)と下台所(左)周辺の水堀と石垣(小倉城案内図Ⓑ) 後方は天守。北の丸(右)の白い建物は神社で、奥の門があるところが北口門跡。 |
野面積みの天守台北東面 | |
<本丸> | |
本丸パノラマ写真 左端の着見櫓跡に建つ、復原された着見櫓(内部は茶屋「つき見亭」)から、右端の天守・続櫓を見渡す。着見櫓は、沖からの通航船を監視した櫓。 | |
天守と続櫓 本来の天守は、装飾的な破風がなく、最上階だけが黒壁のほかは、四方を白壁で取りまいた層塔型という姿であった。 | 続櫓 天守とともに再建された2層の櫓。天守と同様、鉄筋コンクリート造。 |
小倉城庭園(北九州市役所展望室からの眺め) 9:00~17:00、年中無休、有料施設。 | アクセス~JR小倉駅から徒歩約15分。 地域別訪問城に戻る |
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