このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

小牧山東麓<遺構の復元整備が行われた史跡公園>

史跡 小牧山 昭和2年10月26日国指定 指定面積205、956.24㎡ 
 史跡小牧山は、永禄6年(1563)に築かれた織田信長の居城小牧山城跡であり、天正12年(1584)に徳川家康と豊臣秀吉が戦った小牧・長久手の合戦の古戦場でもあります。標高85,6mの小山ですが、平野の中に独立してそびえる姿も美しく、山頂からは、尾張平野を一望することができます。現在は、緑におおわれて市民の憩いの場でもあり、小牧市のシンボル的存在です。

歴史
 永禄6年、織田信長は、清須から小牧山に居城を移し、新しい尾張の政治経済の中心地として、城と城下町を整備しました。信長は、小牧山の山頂から麓まで、多数の曲輪を設けて、山全体を城としました。しかし、その4年後、信長は岐阜へ移り、小牧山は廃城となり、城下町も衰えました。
 信長が岐阜へ去った17年後の天正12年には、小牧・長久手の合戦が起こります。犬山から清須をめざして攻め込もうとする豊臣秀吉の軍勢に対して、徳川家康と織田信雄の軍勢は、信長の城跡に、山麓を取り巻く堀や土塁を築くなどの大改造を行い、堅固な城を築きました。両軍は、にらみあいを続けましたが、小牧付近では大規模な合戦は起こらず、半年後には両軍ともに撤退し、小牧山城は、その後、使われることはありませんでした。
 江戸時代以降、尾張徳川家の保護などにより、小牧・長久手の合戦当時の城の遺構がよく残り、城郭史上の貴重な資料となっています。現在でも、山中に堀や土塁、曲輪などの跡を見ることができます。小牧山東麓には昭和22年に小牧中学校が建設されましたが、平成10年に移転して、その跡地は、発掘調査の成果に基づいて、主として小牧・長久手の合戦当時の姿に復元整備しましたが、部分的に織田信長の時代の屋敷跡を囲んでいた堀や井戸なども復元しています。(現地説明板より)
復元された帯曲輪地区
       
▼帯曲輪地区東部 遺構推定復元図
帯曲輪地区の解説
 小牧山は、山全体が城跡です。小牧山城は、永禄6年(1563)に織田信長が築き、天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦で徳川家康が大改造しました。城の麓の部分は、帯曲輪地区と呼ばれています。山全体を取り巻く土塁のすぐ内側にあたり、細長い平地が分布し、多数の軍勢を収容する機能がありました。このような形に城跡が完成したのは、天正12年です。

 信長の城当時には、山を取り囲んでいる土塁はなく、帯曲輪地区は、堀などで区画された多数の曲輪に分かれていました。この区画は一辺が45m程の方形になるものと推定され、武家屋敷と考えられます。小牧山東南隅に堀と土塁で囲まれた一辺75mの最大規模の武家屋敷(曲輪402)が配置され、北へ向かって一辺45m程の同規模の武家屋敷が連続して多数配置されていました。これらの武家屋敷は、信長が岐阜へ移ったときに廃絶されました。整備工事では、小牧・長久手の合戦当時の土塁や曲輪を復元しましたが、信長時代の武家屋敷の堀や井戸も部分的に復元しています。
   
※芝生地(緑色部分の土塁断面展示施設〜井戸跡〜虎口にかけての範囲)が復元された帯曲輪一帯

▲復元土塁

▲復元の土塁と曲輪

▼土塁外側から見た「土塁断面展示施設」
(写真は、井戸の内部から、井戸枠の木材が、まとまって見つかったときのものです。)

【井戸】
 土塁の下から織田信長当時の武家屋敷の井戸が発見されました。井戸は素掘りで直径は約2m、深さは3.2m以上あります。井戸の底部付近にはめられていた井戸枠の木材がいったん引き抜かれた後、再度、まとめて井戸底へ投げ捨てられた状態で発見されました。

 発掘調査では井戸の上部構造は明らかになりませんでしたので、整備工事では、同時代の絵巻物で見られる井戸を参考に復元しました。

▲井戸跡


▲井戸の内部

復元された曲輪
小牧・長久手合戦の虎口F(遺構推定復元図の虎口F)

※城の出入り口を虎口といい、小牧・長久手の合戦の際には、山麓に5ケ所の虎口を設けています。

 小牧山の東麓に設けられた、東を向いた2ケ所の虎口では、虎口の前面に深い堀を配するなど、他の虎口には見られない強固な造りとなっています。

 これは、東麓が敵方である秀吉軍が布陣した方向に向う位置にあたるためと考えられます。

▲復元された小牧・長久手合戦時の虎口F(上写真の現在地部分)


▲虎口F(復元)
 深い堀と、後方は御幸橋と合瀬川。
小牧山城の復元
 このあたりは、旧小牧中学校の校舎があり、中学校建設時に曲輪や土塁が削平されるなど大きな改変を受けていた部分にあたります。
 整備に先立ち発掘調査を行いましたが、土塁と曲輪については改変の規模が大きく、発掘調査でも確認できない点が多かったため、主に昭和2年の地形測量図を参考に復元を行いました。

 堀は、深く埋まっていましたが、まだ県道の下へ続いており、本来の堀は幅12m程と推定されていますので、県道の幅半分ほどまでは堀だったと思われます。また、江戸時代の春日井郡小牧村古城絵図によって、堀の外側(南側)にも土塁があったことがわかっています。

 なお、今回、復元した堀は、排水の関係上、本来の姿よりも浅くなっています。
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