このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

  加賀初代藩主前田利家が築いた城

小丸山城(こまるやまじょう)


◆史蹟 小丸山城址◆

本丸跡に建つ城址碑
 「史蹟 前田利家小丸山城址」

【所在地】
石川県七尾市馬出町(まだしまち)

【築城年・築城者】
 能登守護畠山氏の居城・七尾城が、上杉謙信によって落城、謙信の死後、能登は織田信長の支配下となり、その武将前田利家が、天正9年(1581)に能登に入り、利家は初め七尾城を居城とした。

 しかし、七尾城は山の上なので、非常に不便であった。そこで翌年、天正10年(1582)港に近い、交通の便利な所口村に居城を移すことにし、小丸山(標高22m)に小丸山城を築城した。

 利家の在城期間はわずかで、賤ヶ岳合戦ののち、天正11年(1583)には金沢城に入城している。
◆地形種類平山城
 小高い丘の小丸山(標高約22m)に築かれた城。写真は、本丸跡からみた天性丸跡。
 
 左下は本丸と天性丸を区切る堀切跡。
小丸山城跡下から見た城跡
◆縄張鳥瞰図(城跡説明板より転載)

 城跡はかなり改変されており、現在では、本丸と天性丸の二つの曲輪を残す。

◆沿革


本丸跡に建つ前田利家松子之像

 天正9年(1581)8月、織田信長より能登一国を与えられた前田利家は、直ちにこの小丸山城を築くが、戦陣に明け暮れる毎日なので、能登の領国支配は兄の前田安勝を城代とし、所口(七尾)町奉行に三輪吉宗・大井久兵衛を当たらせた。この時、前田一族を支えたのは、鎌倉時代より輪島・穴水地域の大屋庄地頭、室町時代には畠山家臣として能登の住民になじみのあった長連龍(ちょうつらたつ)であった。
 
 本能寺の変後の7月24日、能登逸回を目指して石動山へ入った温井景隆・三宅長盛との合戦に利家は、金沢城主佐久間盛政と長連龍の援軍を得て一日で勝利を得た。戦後、利家は連龍と血判起請文を交わし友誼を深めている。
 
 天正11年4月、金沢城主となった利家は、安勝を金沢城代とするとともに小丸山城主とした。安勝は城代に長連龍を選んだ。
 
 文禄2年(1593)9月従四位下侍従に任ぜられた利家の次男利政は、能登の一部を領したので能登侍従といわれた。この利政は慶長2年(1597)小丸山城に住み、同4年3月利家養老封の内、羽咋・鹿島郡1万5千石を分与され城主となった。翌5年9月の関が原の戦に参戦しなかったので10月に封を解かれ、京都に卜居(ぼっきよ)し宗西と称した。
<小丸山公園の説明案内板より>



◆廃城年元和1年(1615)の一国一城令で廃城となる。
◆遺構曲輪跡・堀切・土塁

天性丸と本丸との間の堀切



本丸跡
◆現況小丸山公園として整備(見学自由)
 小丸山城の跡地を整備した公園となっており、春は桜、初夏はツツジの名所として、花見や散策などが楽しめ、市民の憩の場所となっている。

 左写真は、本丸跡に造られた庭園。

公園駐車場から本丸に至る道

本丸と天性丸を区切る堀上に架けられた三更橋


◆交通アクセスJR七尾駅から徒歩5分
◆城跡からの眺め
城跡から望む七尾湾

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