このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

小諸城

日本城郭建築初期の代表格
小諸城 大手門
(国指定重要文化財)
【所在地】長野県小諸市。JR小海線・しなの鉄道「小諸駅」から徒歩約5分。
■小諸城跡は、懐古園という史跡公園となり、その表口には「三の門」が現存。少し離れた市街地(三の丸跡)には大手門が残されている。小諸城と城下町は、かつての信越本線、現在のしなの鉄道によって南北に分断され、大手門は現在、周辺が公園化され史跡らしい景観となっている。
【地形種類】平山城。千曲川の河岸段丘上に築かれた城。城郭部が城下町より低い位置にあるため「穴城(あなじろ)」とも言われる。
 
小諸城から望む千曲川

南谷〜小諸城は、丘と谷が複雑に入り組んだ要害の地に築かれた。
【築城年代・築城者】
 天文23年(1554年)、武田信玄は、従来の大井氏の小諸城に大改修を加え、この地域の拠点城郭とした。慶長年間(1596〜1615)、豊臣秀吉から当地を与えられた仙石秀久(せんごくひでひさ)は、この城をさらに改修し、近世城郭として完成させる。
【文化財指定区分】 国史跡
【国指定重要文化財】 「三の門」 「大手門」
【遺 構】 大手門 天守台 三の門 石垣
 
▲大手門(櫓門)〜平成20年、江戸時代の姿に復元

 
▲野面積の天守台
 
▲懐古園入口に建つ三の門(櫓門)〜寄棟造りの二層の城門。「懐古園」の大額がかかる

 
▲二の門跡の石垣

【歴 史】
小諸城の起こりは、平安時代から鎌倉時代にかけて「源平盛衰記」や「平家物語」に登場する小室太郎光兼(木曽義仲の部将)が、現城址の東側に館を築いた。またその後、大井光忠が小室氏の勢力をおさえて鍋蓋城を築きその子光為がさらに出城として乙女坂城、別名白鶴城(二の丸跡)を構えたが、武田信玄の攻略により落城。信玄はこの地が重要であることから山本勘助と馬場美濃守信房に命じて築城したのが、現在の小諸城址で“酔月城”ともいわれている。 
 その後、織田信長の将滝川一益、徳川家康の将松平源十郎康国が城主になった。さらにその後、仙石秀久が城主となって二の丸・黒門・大手門を建て、その子忠政が三の門・足柄門を経て現在の小諸城が完成した。その後、城主は徳川・松平など六氏に変わり、元禄15年(1702年)、牧野氏になり10代続いた。
 この城の特徴は、全国的にも珍しい城下町より低い穴城で、浅間山の火山灰でできているため、水を用いず、崩れやすい断崖が堅固な要塞となっている。明治4年(1871年)の廃藩置県で役割を終え、明治13年(1880年)に神社を祀り、懐古園と呼ぶようになった。
小 諸 城 散 策

懐古園は小諸城の三の門から本丸にいたる
城の中核部分が公園として整備された地域
(現地案内板より)

小諸城 大手門(内側)
 小諸城の正門(四乃門)。本丸から数えて4番目の門にあたるので「四の門」ともまた、当時は珍しかった瓦葺きだったので「瓦門」とも呼ばれている。慶長17年(1612)、藩主仙石秀久が小諸城を築いた時代の建築。
 二層入母屋造の楼門で、石垣と門が一体化していない事や、1階が敵の侵入を防ぐ強固な造りに対し、2階は居館形式をとっている事など多くの特徴がある。

 
木谷
 河川の浸食で造られた複雑な地形に立地し、各曲輪が切り立った断崖絶壁で囲まれている小諸城は、自然の地形を活かした城である。

小諸城 三の門(国指定重要文化財)
 小諸城は慶長元和年間(関ケ原役前後)にわたって時の城主仙石氏が築城。この三の門も大手門と同様に一連の造営の中で創建された。しかし寛保2年(1742年)小諸御城下を襲った大洪水により三の門は流失し約20年後の明和年代に再建されて現在に至る。
 徳川家達筆「懐古園」の額がかかる三の門は、本丸から3番目の門。この三の門をくぐると、二の丸・北丸・南丸・本丸が展開する。

 

二の門跡
 二の丸への入口を固める枡形で、南の丸とをつなぐ切妻の渡櫓門がここにあった。正面の石垣上は南の丸跡。右の石垣上は二の丸跡。
 本丸・二の丸などは石垣造りの近世城郭だが、その外側の空堀は中世城郭のままである。

二の丸跡
 石段の上が二の丸跡で白鶴城があった。

南の丸跡
 武器庫などがあった所。


北の丸跡
 隠居所の跡。現在は弓道場として使用。


黒門橋
 北の丸(橋の手前)と本丸(橋を渡った所)の間にある空堀に架かる。緊急の時橋げたを取りはずすことができる太鼓橋が架かっていた。


空堀
 右側が本丸跡。


黒門跡
 本丸側から見た黒門橋と黒門跡(左の石垣部分)。一の門が建っていた所。


本丸を囲む石垣
 本丸周囲は石塁で囲まれ、要所には隅櫓が建てられていた。

本丸跡
 現在は懐古神社が建つ。

 
天守台
 本丸北西隅にある織豊期の算木積みの天守台石垣。この上にかつて三重天守が建っていた。天守台は本丸から北西に張り出した配置になっている。天守台右側奥の石垣群は、本丸を囲む石垣。


天守閣への石段

天守閣跡
 三層の天守閣があったが、寛永3年(1626年)に落雷で焼失。その後は徳川の政策により再建されなかったといわれる。


天守閣跡から望む馬場跡
 本丸を囲む石垣の右手に広がる馬場跡は、往復するだけの鉄砲馬場といわれ、今は桜の名所。

地獄谷
 浅間山の山麓に広がる火山灰台地にできた深い侵食谷を空堀にして防御を固める縄張である。
 崖上は水の手展望台。展望台の下には石積みがあり、此処には、水の手不明御門(みずのてあかずのごもん)があり、落城時に密かに脱出する抜け道があった。小諸城の背面にある搦手(からめて)に当たる所。

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