このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

甲 府 城

訪問日 2005年12月・2016年6月

    
■舞鶴城公園として親しまれている甲府城跡を北西から望む
 現在は本丸を中心とした内城の一部が城跡としての良好な景観を保ち、県指定史跡甲府城跡「舞鶴城公園」として保護されており、本丸北方にJRの線路が通り、城内の北端にあった山手御門との間を分断している。


■所在地〜山梨県甲府市丸の内
アクセス〜甲府駅南口より徒歩約5分
(地図は現地案内板より。一部追記)

■甲府城と富士山
 甲府城は、古くは甲斐府中城、一条小山城、赤甲城などと呼ばれていた。
■甲府城の歴史
 甲府城は、天正10年(1582)の武田家の滅亡後、豊臣秀吉政権下で建築が始められ、豊臣秀勝、加藤光泰を経て、慶長5年(1600)頃に浅野長政(五奉行)により完成したと考えられています。発掘調査では金箔瓦や浅野家の家紋瓦などが発見されています。

 関ケ原の戦い後は徳川義直(家康の九男)、忠長(2代将軍秀忠の三男)、綱重(3代将軍家光の三男)、綱豊(後の6代将軍家宣)ら徳川家一門が城主となり城番・城代制がしかれました。宝永元年(1704)以降には、柳沢吉保・吉里親子が城主となり、この時期に甲府城下町も大きく発展しました。柳沢氏が大和郡山(奈良県)へ移封された後は甲府勤番制となり、ふたたび幕府の直轄地となりました。このように豊臣政権下では重臣浅野長政・幸長親子らが甲斐国の支配を任され、また江戸時代の大半が徳川家直轄領であったことからも、ここ山梨が長野、静岡、関東をつなぐ要所であったことがわかります。

 明治維新後は廃城となり、建物が取り壊される一方、勧業試験場および葡萄酒釀造所などが設置され、また城域北部では中央線敷設による解体など甲府城は本来の姿を変えていきました。一方で保護・保存の動きもあらわれ、大正6年(1917)には甲府市在住の村松甚蔵氏の尽力によって国からの払い下げを受け、県有地となりました。戦後は市街地復興に併せて整備が進められ、昭和39年に都市公園「舞鶴城公園」、昭和43年には県の指定史跡「甲府城跡」となりました(文は城跡案内板より)


日本100名城 甲府城



■甲府城本丸を望む
 甲府城に隣接するホテルから撮った写真です。
■地形種類
 平山城。築城以前の地形は、一条小山と呼ばれる独立丘陵であった。甲府城は、この地形を巧みに活かし、切土盛土で各曲輪を形成し、野面積石垣と堀で囲み築城された。
甲府城地図
 
(現地説明板より)

■天守の現況
〜城が建てられた当時の天守台の姿がそのまま残る。

 野面積石垣で積まれた石垣は、近年一部は改修されたが、築城当時の技術や姿を良好に留めている。天守は浅野氏によって建てられたが、関ケ原の戦い後に失われ、江戸時代を通じて天守のない城であった。

 

天守台隅角部
 石垣の隅部には石垣の重みが集まるため、石在の長短を交互に組み合わせて積む算木積みという手法で積まれている。近年、天端と西側一部が改修された。


天守台穴藏
 ■稲荷櫓から見た天守台
【遺 構】 天守台・石垣・堀・門跡・櫓跡・曲輪

<高い石垣>
 この石垣は築城時の野面積み石垣で、高さは約17メートルあります。この時期の石垣としては全国の中でも非常に高いもので、当時の最先端の石積技術が導入されたことがよくわかります。

<南側の内堀>
 堀は、城の周囲を掘り、水を流すなどして敵の侵入を防ぐ施設です。現在は南側の内堀が一部残るのみですが、かつては甲府城全域が堀で囲まれていました。


<二重の石垣>
 石垣の解体調査をしたところ、その背後からも石垣が現れ、積み直しをしていることがわかった。
 奥は先につくられた石垣。手前は奥の石垣を埋めてつくられた石垣。

<本丸櫓跡>
 城内の中心に建てられた櫓で、明治初年までは残っていたことが古写真でわかっています。


<銅門(あかがねもん)跡(本丸側)>
 天守曲輪から本丸に入る西側の門です。礎石は城が建てられた当時のものです。ここから降りた状況が右の写真です。


銅門跡
 天守曲輪側から見た銅門跡。


<中の門跡>
 天守曲輪・本丸へ通じる門。城絵図には柵の門として描かれている。


<坂下門跡>
 鍛冶曲輪と天守曲輪・二の丸をつなぐ門。


<本丸跡>
 鉄門と右側の出入口は銅門跡。


<煙硝蔵跡(えんしょうぐらあと)>
 ここには甲府城の火薬庫だった建物があった。このような建物は全国のどの城にもありましたが、地下構造で特別な防湿構造をもっている珍しい遺構です。後ろと横には再建された土塀が築かれている。

復元・整備】 鍛冶曲輪門・内松陰門・稲荷曲輪門・鉄門・稲荷櫓

<歴史公園 山手御門>


山手渡櫓門
 山手御門は、山手渡櫓門(櫓門)と山手門(高麗門)で構成されている。平成19年に復元。

山手門
 「楽只堂(らくしどう)年録」絵図には、両脇に低い石垣と土塀も描かれており、近世城郭の主要な虎口では、外側に高麗門、内側に櫓門を設けております。
 門扉を支える両側の鏡柱の上に冠木を渡し、前後に腕木を出して切妻屋根を架け、鏡柱の背後にそれぞれ控柱を建て、本屋根より小振りな切妻屋根を載せる特徴的な構造です。


(上)JR中央線越しに「歴史公園 山手御門」を望む
 右写真の現在地近くのホテルより撮影。JR中央線の手前(南側)に甲府城跡が築かれている。

(右)現地案内板より
 水色部分は現在都市開発された部分。
 桃色部分は現在残っている甲府城跡。


山手御門 案内図(城内説明板より)
 山手御門は、甲府城に三つあった出入口の一つです。土橋によって堀を渡り、高石垣と土塀に囲まれた内側の高麗門(山手門)と櫓門(山手渡櫓門)から構成される山手御門を通って、ここから南の城内(現・舞鶴城公園)に出入りできました。しかし明治期に破却され、今では線路で分断されています。

 発掘調査では堀石垣群跡と土橋跡が検出されました。石積みの状況と文献史料から城内の天守台とほぼ同時期の天正末期から慶長初期(16世紀末〜17世紀初)頃に造られたと考えられます。防御上、重要な箇所なので、石垣の完成と同時に櫓門の建造が始まったと想定されます。当初の建造物の史料はありませんでしたが、情報量が多く信憑性が高い「楽只堂年録」絵図をもとに建造物規模を推定しました。また、発掘された石垣遺構に基づいて位置を定めました。このようにして、「楽只堂年録」に描かれた時代(18世紀初)の姿に復元しています。


<城内説明板に追記し掲載。この絵図は、宝永2年(1705)頃に描かれた絵図>

 本丸を取り囲む一段下に人質曲輪、天守曲輪、帯曲輪が造られ、さらに一段下の東に数寄屋曲輪、西に二の丸、南に鍛冶曲輪、北東に稲荷曲輪が配置。

 一方西側の楽屋曲輪、屋形曲輪、清水曲輪は市街化されている。

 <稲荷櫓>
 城内の鬼門(北東)に位置することから艮(うしとら)櫓ともよばれ、江戸時代には武具蔵として使われていた建物。
 明治初年まで残っていたことが古写真などでわかっており、発掘調査でも2度にわたり建物を建築した痕跡(遺構)と、土地の平安を祈るための輪宝(地鎮具)が6点見つかった。平成16年に復元。


稲荷櫓(城外側)
 江戸時代初期、寛文4年(1664)の建築当初の姿で復元。復元に際して櫓台の石垣は積み直された。

「稲荷櫓の概要」
 二重二階層櫓 木造 入母屋造 本瓦葺 高さ:10,865m

 <鉄門(くろがねもん)>本丸の南側に位置する2階建ての櫓門
 天守曲輪から見た鉄門。石段を登り門をくぐると本丸。本丸と天守曲輪の境に位置する櫓門。宝永2年(1705)、柳沢氏によって南門から鉄門へ名称変更。
 明治初年まで存在していたことが歴史資料等から判明しており、史実と伝統工法に基づき平成25年に復元。


鉄門(本丸側)

「鉄門の概要」

 三間一戸潜戸付渡櫓門 木造 入母屋造 本瓦葺 高さ:9,653m 幅約13m


<鍛冶曲輪門(かじくるわもん)>
 鍛冶曲輪と楽屋曲輪をつなぐ門。切妻造で本瓦葺の一間一戸薬医門。明治の初めまでは残っていたものを絵図や発掘調査の成果をもとに平成8年に復元。


<内松陰門(うちまつかげもん)>
 屋形曲輪と二の丸をつなぐ門。切妻造で本瓦葺の高麗門。平成11年に復元。


<稲荷曲輪門(いなりくるわもん)>
 稲荷曲輪と鍛冶曲輪をつなぐ門。切妻造で本瓦葺の高麗門。発掘調査によって、柱の跡などが見つかった。平成11年に復元。

 
 
身延線車窓から望む富士山 


地域別訪問城に戻る

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください