このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

「岡山後楽園案内図」(所在地=岡山市北区後楽園)
 後楽園という名称は、岡山城の後に作られた園という意味で後園と呼ばれていたが、「先憂後楽」の精神に基づいて造られていることから、明治4年(1871)後楽園と改められた。
大名庭園〜岡山後楽園
 金沢の兼六園、水戸の偕楽園と並ぶ日本三名園のひとつ。江戸時代初期の代表的な回遊式庭園。

<左に沢の池と唯心山。右奥は岡山城天守>
 岡山後楽園は、岡山藩主池田綱政公が家臣の津田永忠に命じて、貞享4年(1687)に着工、元禄13年(1700)には一応の完成をみました。その後も、藩主の好みで手が加えられましたが、江戸時代の姿を大きく変えることなく現在に伝えられてきました。また、江戸時代の絵図や池田家の記録、文物が数多く残され、歴史的な変遷を知ることのできる、地方では稀な大名庭園となっています。後楽園は、かつて藩主の静養の場、賓客接待の場として使われましたが、日を定めて藩内の人々にも観覧が許されていました。明治17年(1884)に岡山県に譲渡され、一般公開されました。昭和9年(1934)の水害、昭和20年の戦災では大きな被害を被りましたが、江戸時代の絵図に基づいて復旧をおこないました。昭和27年には文化財保護法による「特別名勝」に指定され、後世に伝える歴史的文化遺産として維持管理にあたっています。(文は現地リーフレットより)

▲鶴見橋と後楽園入口

▲後楽園正門


【写真左】
平四郎の松〜正門を入ったすぐの所にあり、初代の松は樹齢300年近い大木であったが、枯れたため、今は2代目の松を植えている。伝説によると、後楽園を作る前、この辺りに住んでいたという名主、平四郎の庭先にあった松を残したといわれている。この松の右手に鶴鳴館が位置する。

【写真上】
鶴鳴館(かくめいかん)〜ここには、賓客の接待などに使われた茅葺の建物があった。明治17年に鶴鳴館と命名されたが、戦災で焼失。現在の建物は昭和24年に山口県岩国市にあった吉川邸を移築したもの。
(説明文は園内説明板及びリーフレットを参考に作成。以下同じ)

鶴舎(つるしゃ)
築庭当時から鶴が飼育されていたが、戦後絶滅するも、中国の郭沫若氏からタンチョウ2羽が贈られた。その後、釧路市の協力もあり、その美しい姿が園内によみがえった。

観射亭(かんしゃてい)
後楽園は、藩主の楽しみの場としてだけでなく、文武両道を怠らぬよう武芸の稽古場も設けられている。観騎亭・観射亭などは、藩主が家臣の馬術・弓術をご覧になった所。


観騎亭(かんきてい)
藩主が家臣の乗馬の技を見るための建物。馬場側にも窓が開いている。戦災をまぬがれ、往時の姿を今に伝えている。


▲馬場と観騎亭
馬場の長さは約180mで、年若い藩主たちはここで乗馬の稽古に励んだ。
延養亭(えんようてい)
 藩主が後楽園を訪れた時の居間として使われた。沢の池、唯心山、借景の操山(みさおやま)と、園内外の景観が一望できる、後楽園の中心的建物。

 昭和20年の戦災で焼失したが、昭和35年(1960)に再建された。
 左後方は能舞台・栄唱の間、右側には、鶴鳴館)が建つ。
 能に熱心であった池田綱政は優れた舞手でもあり、能装束の名品を数多く残している。能舞台の建物は戦後再建された。

▲延養亭(東側)

▲南から見た延養亭(手前)栄唱の間(えいしょうのま)


▲能舞台・栄唱の間
能舞台の周囲の座敷は、能の見所(けんしょ)や接待の場として使われた。築庭した池田綱政は、家臣や領民にも能を見せた。次の藩主継政の時に改築され、戦災で焼失後、その間取りが復元された。


▲「花葉(かよう)の池」越しに見る延養亭
延養亭は、園内で最も重要な建物であった。第一級の木材と技術で築庭当時の間取りに復元された。

▲花葉の池
この池には、大輪の白い花を咲かせる蓮の「一天四海(通称・大名蓮)」が夏に見頃となる。南西岸には元禄時代初期に巨石を90数個に割って運び、元の形に組み上げた「大立石」がある。

大立石(おおだていし)
巨大な花崗岩を90数個に割り、もとの形に組み上げたもので、築庭にあたり池田綱政が運ばせた。大名庭園ならではの豪快さと石の加工技術の高さがうかがえる。本園には石の割り方がわかる木型も残っている。


御舟入跡(おふないりあと)
藩主が城から舟で渡ってきた時の舟着場の跡で藩主が入る御成御門があった。大正時代に外園散歩道をつけた時に入口の大部分を閉じたが、竹林に囲まれた中に、そのなごりを伝えている。


▲唯心山からの眺め
写真中央奥は、延養亭・能舞台・鶴鳴館、右の池は沢の池。
    
唯心山(ゆいしんざん)
 園内を見渡せる築山。
唯心山は池田綱政(つなまさ)の子、継政(つぐまさ)の時に築かれ、平面的だった庭園が立体的な景観へと変化した。

 山腹には唯心堂があり、斜面には石組に合わせて、ツツジやサツキが植えられ、季節には紅白の花で彩られる。

▲唯心山から眺める沢の池
園内中央にある一番大きな池で、右から島茶屋のある中の島、釣殿のある御野島、白砂青松が美しい砂利島がある。


▲沢の池
写真左の小橋を渡った島は中の島、さらにその右は御野島。中の島と御野島の間には、かっての上道郡と御野郡の郡境があり、今でも石標がそのなごりを伝えている。


▲沢の池
右側の島は、砂利島(じゃりじま)で、その後方は唯心山。左奥は、釣殿のある御野島(左手前)と島茶屋のある中の島。

茶畑と井田(せいでん)
 後方は、美しい丸刈りの列が続く茶畑。手前の井田は、かつて園内に広がっていた田畑のなごりで、中国周時代の田租法にならい幕末に形作られたもの。

 井田の右は、2000年の時を経てよみがえった大賀ハス。

▲井田
毎年6月の第2日曜日には、お田植え祭を行っており、お田植え祭が行われる前の井田の様子(入園日/平成22年6月11日)。後方は岡山城天守、右は唯心山。

▲茶畑
築庭当時からこの位置にあり背景のゆるやかな曲線を描く土手山と調和している。江戸時代には、ここで作った葉茶は、藩主がふだんに飲むお茶として使われた。毎年5月の第3日曜日には、茶つみ祭りが実施される。

流店(りゅうてん)花菖蒲(はなしょうぶ)
 亭舎の中央に水路を通し、色彩に富んだ奇石六個を配した、全国的にも珍しい建物となっている。藩主の庭廻りや賓客の接待などで、休憩所として使われた。戦災をまぬがれた建物の一つで、簡素なたたずまいを今に伝えている。

 花菖蒲は、6月上旬には白や紫などの見事な花を咲かせる。

▲流店内部
階下は四方吹き放しで、水路を通している。

八橋(やつはし)
曲水に板を渡した八橋のそばには杜若(かきつばた)が植えられている。この組み合わせは、『伊勢物語』の「東下り」にちなんだ、風雅な情景となっている。


廉池軒(れんちけん)
戦災をまぬがれた数少ない建物の一つで、池田綱政が最も好んで利用していた。


▲廉池軒
池に架かる石橋や対岸の小島なども、往時の姿を今に伝えている。

廉池軒と岡山城天守

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▲岡山後楽園から望む岡山城天守
後楽園内で一番大きな池「沢の池」と、築山の「唯心山」

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