このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

こうざん
幸山城{市史跡}   (総社市清音三因)

▼西の曲輪は東西40m×南北30mの不整形な楕円状で、巨石が数個露呈している

【歴史】幸山城は別名を甲山城または高山城ともいう。福山の北登山道の中腹から分かれた山塊(標高162m)に立地している。三方は、20m以上の絶壁、眼下に旧山陽道を望む要衝の地である。鎌倉期の後半頃、庄四郎資房によって築城されたといわれる。
その後、応永年間に備中守護代石川氏の居城となった。細川氏の被官であり、また、吉備津神社の社務代である石川氏は備中南部での有力な武将であった。

▼この道をひたすら登っていきます。中腹辺りで、山道が福山城跡へ行く道と分かれます。

▼右上の写真場所から進んで来た所に、「福山城跡・幸山城跡・旧山陽道」の標識が立っています。さらに進むと右写真の場所へでます。

幸山城曲輪跡。この城の縄張は、東の曲輪と西の曲輪とに分かれ、東と西の曲輪の間に大きな堀切がある。堀切は幅30m、深さ4mの大きなものである。


永禄10年(1567)の明禅寺合戦で石川久智は戦死した。その子久式の時、毛利氏と備中松山城主三村元親との戦乱にあたり、久式は義兄の元親を援護するため松山城に出陣したが利あらず逃れて幸山城下に帰り自刃した。時に天正3年(1575)であった。

かくして、毛利氏の領国支配のもとで清水宗治が一時居城し、廃城となった。
{現地案内板より}

※幸山城主の石川久式(いしかわひさのり)が備中高松城を築く。
※1582年(天正10)、羽柴秀吉による「備中高松城水攻め」の時の高松城主が清水宗治。

幸山城跡から望む総社市街

[幸山城跡周辺図]

▼堀切からみる西曲輪跡。一段、高くなっている部分

▼堀切跡と西曲輪跡

▼東曲輪跡より堀切と西曲輪を望む

幸山城跡と備中福山城跡


印のところから幸山城へ登城しました。下の写真は印部分の写真です。↑矢印の方向へ進んで行きます。なお、分かりづらいですが左右の道が旧山陽道です。

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