このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
土塁がめぐる城
(上)久保田城から望む秋田市街
(左)久保田城周辺図
「交通ガイド」
JR秋田新幹線秋田駅から徒歩8分
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秋田藩佐竹氏12代の城
別名 | 矢留城 |
所在地 | 秋田県秋田市千秋公園 |
地形種類 | 平山城 |
築城年代 | 慶長8年(1603)築城開始、翌年完成 |
築城者 | |
天守 | 天守は築かれなかった |
文化財史跡区分 | 市指定文化財1件(御物頭御番所) |
主な遺構 | |
復元・整備 | 城跡は千秋公園として整備。御隅櫓<平成1(1989)復原> 表門<平成13年(2001)復元> |
久保田城 歴史
■秋田藩佐竹氏の居城。標高45mの神明山の丘陵上に築かれた平山城。関ヶ原の合戦で西軍石田三成に通じたとして常陸54万石から出羽20万石に転封された佐竹義宣が、1603年(慶長8)に起工。石垣をほとんど用いず、土塁と堀をめぐらして防備を固めた。天守は築かず、8基の2重隅櫓と2階建ての御出書院が置かれた。
■佐竹氏は12代で明治維新を迎え、1880年(明治13)の大火で御物頭御番所以外の本丸建物はほとんどが焼失した。現在、城址は千秋公園として整備され、御隅櫓と表門などが復興されている。
※佐竹氏は、平安後期から勢威を示した北関東の名族。義宣は水戸城を本拠としたが、関ヶ原の戦いで西軍に通じたとされ、秋田転封となった。
【番所の重要な役割】
番所には、さまざまな種類があって、規模や形式もまちまちである。主要な曲輪の内にあって、その曲輪の見回りや管理の中枢となる番所、主要な城門の近くにあって、城門の開閉や門を出入りする者の監視を行う番所、三の丸や外郭の街路にあって、現在の交番に相当する辻番所などがあった。したがって、ひとつの城で数十か所もあり、その果たす役割は重要であった。
城門付近に設けられた番所は、特に重要で、常時、役人が詰めていた。城門は、毎朝、日の出とともに開き、毎夕、日の入りとともに閉めなければならず、その扉の開閉を担っていた。
※櫓とは「矢を射る座(くら)」すなわち見張り場としての役割と「矢倉」すなわち武器庫としての役割を持っていた。近世の櫓は、隅櫓と多聞櫓(多聞長屋)に分けられるが、土塁や石垣の城の囲いに沿って建てられる多聞櫓に対して、城の囲いのコーナー部に建てられる櫓を隅櫓と呼ぶ。
{明治初年の久保田城}
手前の橋は内堀に架かる三の丸の穴門橋。左上に
参勤交代の目的 |
幕府は原則として、大名の生活の場を江戸1年、国元1年とし、外様大名の場合は4月を交代期として、2年に1回の割合で、江戸と国元を往復させた。これを参勤交代という。この行列は、藩の石高に応じて随行する人数なども決められており、それにかかる費用はかなりの額にのぼり、佐竹氏のような外様大名は、江戸から離れた地に多く、それだけ費用も日数もかかった。華やかな大名行列の陰には、幕府による諸大名の経済力削減の目的が込められていた。 |
久保田城絵図
11代義睦(よしちか)が弘化4年(1847)3月に幕府へ提出した土居崩れの箇所の修復願い。本丸と二の丸を内堀で、三の丸を外堀で囲んでいる。現在では、北の丸、三の丸は市街化されている。
初代藩主・佐竹義宣画像
秋田藩佐竹氏は、源氏の流れをくむ名門であり、全国の大名の中でも古い歴史をもつ殿様。
久保田本丸絵図
安政6年(1859)に描かれた絵図。本丸には藩主の居館、南西隅の高台には天守の代わりをしたといわれる御出書院が建っていた。
秋田市指定文化財
ひといろかわつつみほとけどうくろいとおどしぐそく
人色皮包仏胴黒糸縅具足
秋田藩初代藩主 佐竹義宣所用
佐竹家家紋「月印五本骨軍扇」
秋田市立佐竹史料館所蔵
本丸北側の帯曲輪門跡
土塁で築かれた久保田城の面影がよく残る。
本丸南側の松下門跡
秋田藩12代藩主佐竹義堯(よしたか)公銅像
秋田藩最後の藩主。
秋田駅に近い二の丸正門の黒門跡から入城し、城址の千秋公園をめぐる。堀に架かる唐金橋跡を渡り、黒門跡から二の丸跡に上がる。本丸へ上がる長坂の石段や長坂門跡を確認し、久保田城の唯一の遺構である御物頭御番所を見学し、すぐ左手の表門をくぐり、埋門跡・多聞長屋跡を歩き、御隅櫓に到る。
スライドで巡る久保田城跡
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