このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

この地のいわれ〜倉敷代官所跡・倉紡発祥の地〜
 古来この附近一帯は「小野が城」または「城の内」と呼ばれ、戦国時代の砦の跡といわれる。慶長5年(西暦1600)関ケ原の合戦で東軍が勝利を得てから、この地は徳川幕府の直領(天領)となった。慶長19年(西暦1614)大阪冬の陣に備中国総代官小堀遠州は幕府の命をうけ、兵糧米10数万石を倉敷湊から大阪に積み出すため、ここに屋敷を構えて陣屋とした。それ以来倉敷湊は急速な発展を遂げ、寛永19年(1642)に陣屋は倉敷代官所となり、初代幕府代官米倉平太夫が赴任してきた。それより明治維新にいたる200余年間、倉敷代官所は備中(倉敷)美作(久世)讃岐(塩飽諸島)の天領を支配する枢府となった。天保5年(1834)には代官所北側に倉敷教諭所が建てられ明倫館と名付けられた。それ以来、この地は文教の中心地となった。
 幕末になって尊皇佐幕で天下が物情騒然のとき、慶応2年(1866)長州奇兵隊を脱走した一味約100名は、倉敷代官所および浅尾藩(総社市)を襲撃し世にいう倉敷浅尾騒動を起こした。このため代官所は灰燼に帰し焼野が原となった。明治の維新政府は、代官所跡に倉敷県庁を置いたが、明治4年倉敷県が廃止されてからは放置されたままになっていた。その後地元の先覚者達によって、明治21年3月9日代官所跡に倉敷紡績所(倉敷紡績株式会社)が創設され、紡績工場の汽笛が鳴りひびいた。以来、倉敷紡績の隆盛は倉敷の発展に寄与するところとなった。倉敷紡績では、この地が古くより倉敷発展の中心地であるのみならず、また、会社発祥の由緒ある地であることにもかんがみて、記念保存地区に指定し、この地一帯が長く伝え残されることを希望している(文は現地説明板より)

代官所井戸

代官所内濠遺構

【児島虎次郎記念館】

  ■倉敷記念館  ■児島虎次郎記念館

■原綿倉庫を改修し、倉敷紡績の創立から現在までの歴史を展示。
岡山県の文化財に戻る

■倉敷アイビースクエアは、もと江戸幕府代官所のあった場所で、倉敷紡績所(現クラボウ)発祥の地でもある。終戦後は休止工場となり、再び生産工場に復活することはなかった。アイビースクエアは、この工場を倉敷美観地区にふさわしい施設として、昭和49年(1974)に誕生。現在では、蔦のからまる赤レンガ造りのホテルや多目的ホール、工房、店舗、また、付属文化施設として倉紡記念館、児島虎次郎記念館、博物館、アイビー学館などを持つスクエア(一角)として存在する。※なお、現在地の処に代官所濠遺構が残る。

【倉紡記念館】

■大原コレクションに活躍し、倉敷紡績2代社長大原孫三郎と親交のあった洋画家児島虎次郎の作品と、その収集になる洋画、オリエント美術品を展示。建物は工場付属倉庫。

倉敷アイビースクエアひろば

倉敷アイビースクエア正門

{倉敷紡績記念館・児島虎次郎記念館周辺図}

 ■この建物は倉敷紡績の発祥工場で明治22年(1889)に建設された。設計は、日本の最初の紡績工場(鹿児島紡績所)を建設した石河正龍らによるもので、今日わが国に残存する最も古い紡績工場の代表的な一つとなっている。純英国風といわれる鋸型の屋根、赤いレンガの外壁、半円形の窓など当時の面影をそのままとどめている。
 この工場は昭和20年(1945)終戦とともに長年に亘る操業(綿紡績など)に終止符を打ち、休止工場として保存されていたものを昭和49年(1974)に改装した。

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください