このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
久留米城情報 | ||||||
所在地 | 福岡県久留米市 | |||||
別名 | 笹原城 篠山城 | |||||
地形種類 | 平山城 北西に流れる筑後川を自然の濠とし、筑後川の丘陵に造られた城。 | |||||
築城年 築城者 | ■天正15年(1587) 毛利秀包(もうりひでかね)〜永正年間(1504〜21)に築かれた篠山城(笹原城)を本格的な城郭に築城。 ■元和7年(1621) 有馬豊氏(ありまとようじ)〜近世城郭に城を大改築。 | |||||
文化財指定区分 | 県史跡 | |||||
天守 | 天守は建てられなかったが、平山多聞造りで、高い白土の城壁にそびえたつ2層と3層の7つの櫓があり、本丸南東隅の3層建ての辰巳(たつみ)櫓は壮大な偉容を誇っていた。 | |||||
遺構 | 本丸の石垣と堀が現存(写真は本丸南西部の高石垣) | |||||
歴史 | 永正年間(1504〜21)に筑後川ぞいの小高い山に築かれた平山城が、久留米城の始まりとされる。高良山勢力の出城であったらしく、天正11(1583)年から3年間、高良山座主麟圭(りんけい)はこの城に籠り、豊後大友氏と戦っている。天正15年、豊臣秀吉の九州国割により、久留米城には毛利秀包が入城する。関ヶ原の戦いで毛利家が断絶すると、田中吉政(よしまさ)が筑後一国の領主となり、筑後北部の支配の拠点であるこの城には次男則政(のりまさ)が置かれた。 元和7(1621)年、有馬豊氏が田中家の改易をうけて筑後北半21万石の大名として入城し、幕末まで有馬家の城下町として栄えることになる。 有馬家は入国当初から約40年かけて、廃城となっていた久留米城の大改修を行い、本丸・ニノ丸・三ノ丸・外郭に濠を廻す連郭式城郭を建設している。ニノ丸以下の郭にあった町家・寺社を城外に移転させ、それを守るような形で荘島(しょうじま)・櫛原(くしはら)・京隈(きょうぐま)などの士屋敷を配置した城下町を作りあげている。この城郭と城下町が現在の久留米市街地の骨格になっており、市街地には往時をしのぶ多くの史跡を見ることができる。 | |||||
久留米城下町絵図 | ①本丸〜久留米城の中枢で藩主の政治の場である。多聞造りで天守はなく南東隅の3層の辰巳櫓が最も壮大であった。 ②ニノ丸〜藩主の御殿があった郭。 ③三ノ丸〜有馬家家老の屋敷地などからなる郭。 ④外郭〜上級の家臣団の屋敷地。藩の役所も多く設けられた。藩校明善堂(めいぜんどう)もこの郭内にある。 ⑤柳原〜江戸時代初期には士屋敷があったが、度々水害の被害を受けたため移転させた。 ⑥筑前堀〜久留米城東面の第二濠は寛永8(1631)年に、有馬豊氏と懇意であった筑前の黒田長政の設計によって掘られたため、この堀を筑前堀という。 ⑦京隈小路〜元和9(1623)年から建設された京隈小路と延宝5(1677)年に作られた小松原小路からなる武家屋敷地である。 縄張は本丸を中心にニノ丸、三ノ丸を配した連郭式であるが、現在では本丸以外姿を残していない。 | |||||
本丸が唯一残る久留米城
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本丸大手虎口 虎口(出入口)は、近世城郭の特徴である枡形構造 | ||||||
本丸南面に位置する本丸大手虎口と土橋を西から望む | ||||||
本丸南西部のほとんど反りのない直線的な高石垣 | ||||||
本丸上から望む本丸東面の石垣 | ||||||
腰曲輪から望む本丸東面石垣 | ||||||
<久留米城周辺図> | ||||||
▲(左)JR久留米駅と「からくり時計」。(右)久留米城周辺図①の地点にある城への標識。ここから城まで約900m。 | ||||||
▲(左)②のけやき通り。(右)③の地点の様子。城へはこの先の信号を左に曲がる。 | ||||||
(左)④の地点から本丸大手虎口を望む。(右)筑後川。 地域別訪問城に戻る |
▲筑後川畔から望む久留米城址
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