このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

◆松坂城跡<日本百名城>を望む
【所在地】三重県松阪市  【国史跡】平成23年2月7日指定  【遺構】現在は松阪公園となり天守台や本丸・二ノ丸に石垣が残る
 <訪城日〜2017年5月再訪問>
【松坂城跡】
 松坂城は蒲生氏郷(がもううじさと)が天正16年(1588)この四五百森(よいほのもり)に築城した平山城である。氏郷が陸奥黒川(現在の福島県会津若松市)へ移封後、天正19年(1591)に服部一忠(はっとりかずただ)、文禄4年(1595)に古田重勝(ふるたしげかつ)と城主が変わり、元和5年(1619)に徳川頼宣が和歌山藩主となると同時に和歌山藩領となり、以降、明治になるまで勢州領(松坂・田丸・白子等)18万石を統轄する城代が置かれてきた。
 
▼松坂城入口(大手側)〜奥に見える石垣は表門跡
 
(絵図に一部、追記)
【築 城】天正16年(1588年)、蒲生氏郷が四五百森の独立丘陵(標高約38m)に平山城として築いた。
【構 造】城は北東に大手、南東を搦手とした。城郭の外部に堀をめぐらし、本丸、二ノ丸、三ノ丸、きたい丸、隠居丸を築き、城郭の中央よりやや西に天守台を作り、三層の天守閣を築いた。
【石 垣】自然石を積み上げる野面積(のづらづみ)を主体とし、隅部は算木積(さんぎつみ)の工法。
【竹藪と梅林】城内に竹藪と梅林があった。竹は防御とともに槍や弓矢に使うため、梅林は食糧用のもの。
【築城後の変遷】氏郷は、完成後間もない天正18年(1590)、会津へ移封。その後、服部一忠、古田重勝、重治らが城主となる。元和5年(1619年)、紀州藩の統治下に置かれ、天守閣は正保元年(1644年)の台風のため倒壊したとの記録があり、櫓などもその後、台風や地震などのため倒壊。明治14年(1881)松阪公園となり、現在に至る。

松坂城大手門跡(松阪市役所前付近)〜かつて松坂城には、出入口が4か所(大手口、搦手口、同心町南口、5曲口)あり、それぞれに城門があった。城の表玄関にあたる大手口には土塁や石垣が築かれ、門が置かれた出入口は前後の通路と食い違いになって、敵がまっすぐ城内に侵入できない構造になっていた。このような造りを「食い違い虎口」という。
 この場所には、俗に「四ツ足御門(建築様式の<四脚門>のことか)」と呼ばれた大手門があり、この門をくぐると城内(三ノ丸)に入る。現在、大手門のあった場所の道路が微妙に曲がっているのはそのためで、大手門は明治初期まで残っていた。右奥が松坂城入口。

堀跡(大手門付近)〜かつての堀の名残りで、この辺りの堀幅は17間(約30m)もあり、その内側には土居(土塁)が築かれていた。現在は水路として痕跡を残すのみである。
  ◆城跡案内図◆

城郭の縄張りについて
 本丸は上下2段に分かれる。上段の一段高い天守台に3層の天守が存在し、その北側に天守と連結する敵見櫓、東隅に金ノ間櫓を配置し、下段には南側に太鼓櫓、東隅に月見櫓、北側に遠見櫓を配置し、その間に多聞を巡らせていた。また、二ノ丸に通じる大手筋に表二ノ門(助左衛門御門)、搦手筋に裏ニノ門が置かれた。現在見られる石垣は、蒲生〜古田期に築かれ中心部分はあまり改変を受けていない。上段虎口に蒲生時代の石垣が残る。

 二ノ丸は、本丸の東に位置し、南隅に櫓が配され、二ノ丸御殿(徳川陣屋)が建てられた。二ノ丸に通じる大手筋に表門、搦手筋に裏門が置かれた。きたい丸は、本丸の西に位置し、隠居丸は、本丸の南に位置する。現在、曲輪内に本居宣長旧宅(国特別史跡)が移築され公開されている。三ノ丸は外周に堀・土塁を巡らせていた。明治初期に堀が埋められた後、宅地や学校敷地となり、旧松坂御城番長屋の他に当時の面影をとどめるものはない。

(案内図は現地説明板に一部追記、転載)
『表門〜本丸下段』 

▲表門跡
 表門は本瓦葺2階建の本格的な櫓門であったが明治初期に破却。松坂城跡碑(1978年建立)後方は本丸下段の石垣。松坂城跡碑の左方向の様子が右写真。

▲本丸下段石垣の左端(東隅)は月見櫓跡の石垣

▲助左衛門御門跡(表ニノ門)
 左側の石垣には遠見櫓、右側の石垣には鐘ノ櫓が建っていた。二ノ丸から本丸下段に通じる御門。

▲遠見櫓跡の石垣
 右奥へ進むと本丸下段跡となる。

▲鐘ノ櫓跡の石垣

▲本丸下段跡
 右側は本丸上段を囲む石垣。

▲太鼓櫓跡(正面の石段のある所)
 本丸下段の南隅に位置する。左側は多聞跡で、多聞櫓が月見櫓と連結していた。

▲月見櫓跡
 本丸下段東角にあった2層の櫓。台所棟と付属舎が付いていたが、17世紀中葉に大破。左奥が遠見櫓跡になる。
▲遠見櫓跡から見た月見櫓跡
 左側の細長く築かれている多聞跡の前方が月見櫓跡。遠見櫓と月見櫓は多聞櫓で連結されていた。また、月見櫓と太鼓櫓も多聞櫓で繋がっており、下段の周囲は石塁で囲まれていた。

▲中御門跡
 二ノ丸、隠居丸からの本丸下段への出入口。折れを多用した枡形虎口。
  『本丸上段』
 
▲本丸上段の石垣〜石垣上は金ノ間櫓跡。
 
▲天守台〜天守台には、3層の望楼型天守(詳細は不明)があったが、正保元年(1644)7月29日の大風で倒壊した。北側には天守と連結する敵見櫓が置かれた。本丸上段一帯の石垣は、築城当時の状況が良好に遺存している。

▲本丸下段から上段へ登る通路(本丸上段からの写真)
 金ノ間櫓台のすぐ南側にあり、複雑に折り曲げられている。

▲本丸上段跡
 本丸下段と同じく周囲を石塁が囲む。この石塁の上には、多聞櫓が載っていた。

▲金ノ間櫓跡
 本丸上段東角にあった天守に拮抗する2層の櫓。台所棟と付属舎が付いていたが、17世紀中葉に破損.。

▲天守台
 石垣は自然石をほぼそのままの形で積み上げた野面積み。
  『きたい丸〜隠居丸〜ニノ丸〜三ノ丸』

▲きたい丸跡
 鐘ノ櫓、藤見櫓、隅櫓、無名櫓2棟が配置されていた。

▲ニノ丸側から見た隠居丸
 石段を上がり門をくぐると隠居丸跡。

▲埋門跡
 本居宣長記念館(後方の建物)と本居宣長旧宅の間に残る。左に行くと本居宣長旧宅。

▲本居宣長旧宅(国特別史跡)
 江戸時代の国学者・本居宣長の旧宅「鈴屋」。隠居丸に移築され公開されている。

▲ニノ丸跡
 「ニノ丸屋形」が存在したが荒廃したため、新たにニノ丸御殿が建てられた。城門としては、大手筋に表門、搦手筋に裏門が置かれた。

▲裏門跡
 守りを重視した枡形構造。手前が三ノ丸跡、奥に行くとニノ丸跡。

▲松坂城入口(搦手側)
 ここを出ると右側にはニノ丸の石垣がそびえ、そして手前側には御城番屋敷と土蔵が建ち並ぶ。

▲ニノ丸の石垣
 石垣は最近の積み直しである。

▲ニノ丸の石垣
 加工され整えられた切り石を用いた打ち込みハギを採用し、石垣の隅は長方形の石材を長短交互に積み上げる算木積みである。

▲御城番屋敷(国指定重要文化財)
 この長屋建物は、松坂城御城番、四十石取りの紀州藩士二十人の組屋敷として、文久3年(1863)に建設された。三ノ丸跡に現存。

▲御城番屋敷 土蔵(三重県指定有形文化財)
 この土蔵は、江戸時代末期に松坂城内の隠居丸に建てられていた3棟の土蔵(米蔵1棟、道具蔵2棟)のうちの米蔵で、明治初期に苗秀社に払い下げられて現在地に移築されたと言われている。このことが事実ならば、旧松坂城関係の建物としては、唯一の現存する建物となる。

松阪駅から徒歩15分

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