このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
門を構える |
松代城本丸には3ヶ所の出入口(虎口)があったが、本丸大手(正面)の守りとして、南側に本丸で一番大きい「太鼓門」を構えていた。一方、河川敷と接する本丸搦手(裏口)の出入口には、「北不明門(きたあかずもん)」と呼ばれる、やや小さ目の櫓門があった。出入口は桝形とよばれる二重の門(櫓門・表門)によって構成されている。復元工事では、発掘調査で発見した礎石(門柱を立てる基礎石)や絵図資料を基に、櫓門と高麗門(表門)を復元している。 |
石垣を築く |
築城当初、海津城の本丸(主郭)は、土塁と堀で囲まれていたと伝えられている。その後、本丸の周囲や橋台、二の丸の出入口部分など限られた箇所には石垣が築かれるが、二の丸や三の丸は廃城まで土塁に囲まれていた。整備前、松代城の本丸石垣には、自然災害等による破損・欠損箇所や、明治以降の積み直し箇所があり、江戸時期の石垣様相が失われていた。今回の整備では、石垣の解体修理を実施。解体前には一つ一つの石全てに番号をつけて、大きさ、重さ、材質、位置を記録しており、積み直す時には往時の景観と異ならないよう、検討を重ねた上で慎重に工事を進めた。 |
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松代城は、戦国時代に築城されて以降明治の廃城まで存続した城であり、三百余年の間北信濃の歴史における拠点的場所であった。廃城後は建物が打ち壊されたために、城としての景観を大きく失っていた。長野市では、この貴重な文化遺産を後世に伝えるため、1995年(平成7)から2004年(平成16)にかけて、平成の大普請(環境整備工事)を実施。大普請では、発掘調査や絵図資料により、1717年(享保2)の火災以降に再建された「松代城」を復元・整備した。よみがえった櫓門や木橋、石垣、土塁、堀などは、江戸時代の姿に限りなく近い状態で再現されている。
本丸大手に復元された太鼓門と太鼓門前橋
太鼓門は、橋詰門(高麗門)と太鼓門(櫓門)で桝形を構成。本丸石垣、内堀も修理・復元された。
橋を架ける |
松代城の本丸は、三方を堀(内堀)に囲まれていた。本丸大手(正面)の太鼓門手前には「太鼓門前橋」と呼ばれる木橋が架けられていた。内堀の発掘調査では、30本以上の折れた橋脚を発見しており、洪水や地震によって壊れた橋が幾度も架け直された様子をうかがうことができる。整備では、発見された橋脚と江戸時代末期の絵図面をもとに復元された。 |
(左上)土塁
(右上)埋門
二の丸土塁のトンネル状の門。絵図をもとに景観のみ再現。
(左)井戸と北不明門
井戸は千曲川改修後に造られた井戸を再現。
▲橋詰門(高麗門)から見た太鼓門
復元においては、木材や漆喰を利用する在来工法が採用され、築城当時の技術によって復元された。
▲高麗門
北不明門とで桝形を構成。後方は戌亥櫓台石垣。
■松代城は長野電鉄「松代駅」より徒歩5分
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長野電鉄「松代駅」から望む松代城跡
▲太鼓門の城内側
▲本丸西側の石垣
▲二の丸跡と東不明門前橋
東不明門前門は、本丸東側不明門前に架けられていた橋。左側の建物は太鼓門。
▲太鼓門前橋
▲戌亥櫓台(いぬいやぐらだい)石垣
野面積みで積まれた櫓台の石垣は抜本的な積み直しはおこなわれず、欠落した小石の挿入程度にとどめられた。
▲塀越しに見た北不明門の櫓門と高麗門(右側屋根の建物)。奥後方に見えるのは太鼓門。
▲(左・右)北不明門(きたあかずもん)
この門は本丸搦手(裏側)に位置する門。当初は千曲川河川敷に接していたため「水ノ手御門」とも呼ばれていた。発掘された礎石や、現存する古図面をもとにして復元。左は城外側、右は城内側の写真。
▲復元された塀
▲本丸跡と太鼓門
復元された松代城を訪ねる |
本丸周辺の復元・整備 |
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