このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

松前城

【所在地】
北海道松前郡松前町

国指定史跡

{松前城アクセス}
JR函館駅から江差線で木古内駅にて乗換。
函館バス「松前行き」で約1時間30分。
松城バス停下車、徒歩10分。

松前城下を再現したテーマパーク・松前藩屋敷

■堀端から見る再建天守と本丸御門

■復元された「馬坂(うまさか)」 松前藩士が登城したと伝えられる 城内へ通じる坂

▼松前城正門(券売所))と、後方は天守

重要文化財福山城(松前城)本丸御門修理概要等
 福山城(松前城)は、松前町福山の台地に築かれた平山城で、近世に築城された北海道唯一の城郭である。松前家5世慶広が、天正17年(1589)徳山(大館)の居館焼失を機に、慶長5年(1600)福山の地で築城に着手し、同11年(1606)完成した。

 蝦夷地の中心として威容を誇ったこの城は、嘉永2年(1849)幕府の命により取り壊され、高崎藩士市川一学の縄張により、直ちに全面的な改築に着手し、安政元年(1854)完成をみた。その後10数年を経ずして、明治維新後の戦乱により廃墟と化し、さらに明治8年(1875)には、天守(三重櫓)・本丸御門・同東塀等を残して取り壊された。昭和16年これら3棟は、国宝に指定されたが、同24年本丸御門を残して他の建物は焼失し、指定を解除された。同25年文化財保護法の施行により、本丸御門は重要文化財に指定された。

 本丸御門は、昭和24年に屋根葺替部分修理を行っているが、修理後35年を経て、屋根銅板が磨耗し、雨漏りを生じるようになり、また昭和58年の日本海中部地震により、柱の傾斜等が生じたため、屋根葺替部分修理を実施した。
実施に当たっては松前町の直轄工事とし、設計監理を松前町教育委員会文化財課が担当した(文は現地説明板より)

【松前城沿革】15世紀半ば頃、松前には大舘(おおだて)と呼ぶ居館があったが、後に松前氏を名乗った蠣崎(かきざき)氏がこの地に居住し徳山館と名づけ、松前家5世慶弘(よしひろ)が慶長5年(1600)に現城跡に大規模な館を造り「福山館(ふくやまだて)」と称した。

 その後、嘉永2年(1849)、17世崇弘(たかひろ)の代に北辺警備の必要上、幕府は松前藩に命じて本式の城を築かせ、兵学者市川一学の設計により旧城を壊して新築し、安政元年(1854)に完成した。東西240m、南北300m、16の門、7つの砲台、4つの櫓を有するわが国最後の本格的築城であった。

 明治元年箱館戦争のとき、攻防のちまたとなり、明治8年(1875)天守と本丸御殿を残して大部分はとりこわされた。城跡は昭和10年国の史跡に、天守と門は昭和16年国宝に指定されたが昭和24年業火のため三層天守を焼失し、国宝指定が解除された。昭和25年本丸御殿は国の重要文化財に指定されている。昭和35年天守閣、同36年搦手門は鉄筋コンクリートで再建された。(文は現地リーフレットより。一部加筆)

▼本丸御門の扉

■北海道唯一の藩である松前藩松前氏の居城。
松前は、日本最北の城下町であり、また北海道唯一の城下町。
■アイヌ民族との幾多の抗争のすえ統一国家の一員として誕生した松前藩は、独自の歴史を繰り広げてきた。
■米のとれない「無高の藩」ながら漁業権益で繁栄、幕末には北辺警備の要とされ、海防強化の目的で大改築されたが、明治維新の内戦の中で落城。
■正式名称は「福山城」
■主な遺構
本丸御門(重要文化財)
本丸表御殿玄関(道指定有形文化財)
■天守の現況
再建天守(三重三階、鉄筋コンクリート造り)

松前家家紋
「丸に割菱
(わりびし)


▼外観復元の天守 三重三階、鉄筋コンクリート造り

■亀甲積(きっこうづみ)の石垣 六角形に加工した石を隙間なく積む積み方
天守
旧福山城本丸表御殿玄関<北海道指定有形文化財>
北海道指定有形文化財<昭和38年7月26日指定>
旧福山城本丸表御殿玄関
 慶長11(1606)年に完成した城は、当時これを福山館と称していた。しかし、寛永14(1637)年城中から火を出し、多くの建物を焼失、寛永16年これを修築した。その際、表御殿には京都伏見城の一部が移されたと伝えられている。

 明治8年、北海道開拓使の命令により福山城は取り壊されたが、天守と本丸御門、表御殿は残った。

 表御殿は松城小学校として充用され、明治33年新校舎が完成した後もこの玄関だけは小学校正面玄関として、昭和57年まで利用されてきた。現在は、本丸御門の側に移築され保存されている。

※案内図は松前城資料館案内リーフレットを引用。

■地域別訪問城に戻る

再建された天守
 箱館戦争を生き残った3層天守は、昭和16年に国宝に指定されたが、昭和24(1949)年6月、町役場の火災で痛恨の焼失、再建されたのは昭和35(1960)年。現在、内部は松前城資料館になっている。

馬坂の由来
 江戸時代に松前藩士が登城したと伝えられる馬坂は「数馬坂(かずまさか)」と呼ばれていたのが縮まり、現在の馬坂と呼ばれるようになったと伝えられている。

 松前家五世・藩主松前慶広の四男・数馬之介由広が大坂冬の陣(一六一四)が起きる直前、慶広の意に反して豊臣方につこうとしたため、家臣に襲われ、斬り殺された場所とも伝えられている。当時、城内へ通ずる坂は五つあり(馬出口・天神坂・馬坂・湯殿沢口・新坂)馬坂はその一つである。

▼国道228号線から望む松前城天守
松前城(福山城)は、松前町福山の台地に築かれた平山城

▽松前城より見る松前湾

▽松城バス停からの風景

▼写真奥より旧福山城本丸表御殿玄関、本丸御門、天守

▲本丸御門(屋根が切妻造の櫓門)と再建された層塔型天守
本丸御門

■砲弾の跡が残る石垣 松前城は、戊辰戦争で、土方歳三らの旧幕府軍に攻められて落城した。その時の砲弾跡が再建天守下の石垣に残っている。

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