このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 まつしま
松島城    (倉敷市松島)

■毛利氏が領国東端の備中国南東部(現岡山市西部・倉敷市北東部)一帯に整備した「境目七城」の一つ。

 1582年(天正10)、織田信長の天下統一が目前となった頃、信長は羽柴(後の豊臣)秀吉に毛利征伐を命じた。秀吉は山陽を西進し、宇喜多軍勢を含め秀吉率いる3万の軍勢は、毛利方の諸城を次々と攻略。備中高松城を最前線に毛利軍と対峙した。しかし、松島城は境目七城のなかで備中高松城から一番遠い場所にあり秀吉軍に攻撃を受けなかった。
 城主は梨羽中務丞高秋、毛利輝元の合戦に落城。その後は鳥羽左衛門尉の居城となったと伝えられている。

高松城水攻め布陣図
 東から攻めてくる羽柴秀吉率いる織田軍勢に対し、毛利側の防衛ラインは宇喜多家が織田家に味方したために備前と備中の国境まで後退した。この防衛ラインになったのが、足守川沿いにほぼ南北に並ぶ「境目七城」と呼ばれる七つの城。その中心が備中高松城であった。

「境目七城」の位置
 北より〜宮路山城、冠山城、高松城、鴨庄城(加茂城)、日幡城、庭瀬城、松島城。
松島城は高松城から一番遠い場所にあり、秀吉軍に攻められなかった。

※この松島は大むかしは海中に浮かぶ小島であった。松島という丘の上に松島城があったとされ、二つの小山の東端、一名射越山というのが城址とされており、一名城山ともいわれている。
▼松島城跡に建つ川崎医科大学付属病院を望む

■(左)松島城跡周辺図〜赤枠部分は松島城跡。現在は川崎医科大学付属病院の敷地内となっている。
■(下)写真は、松島城跡付近の状況。川崎医科大学付属病院の建つ丘は、高松の役の際の毛利方境目七城のうちでも最南の城として、梨羽高秋が守備したという。.
※文は岡山の城写真展(於・岡山シティミュージアム)より
※HP松島城編は2016年1月訂正後、更新

■コラム


▲川崎医療短大の北西側。ここに、右写真の看板が立っています。

▲地名が「城ノ内地区」と表示されている。地名は、その土地の歴史的背景を表すこともあり、川崎医療短大の建つ小丘も松島城の跡なのか、一部であったのか、考えさせられるところです。


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