このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

みなくち
水口城
東海道の宿場町・水口に、将軍の宿館として築かれた平城
■別称〜碧水城(へきすい) 
■滋賀県指定史跡
■遺構〜石垣・堀 
■再建造物〜復元櫓・門
■所在地〜滋賀県甲賀市水口町(加藤家2万5千石の城下町)

平成3年(1991)再建された矢倉(内部は水口資料館)と門

【水口城略記】
 水口は都から伊勢へ通じる交通の要所にあり、中世後期にはすでに街並みが形成されていたが、天正13年(1585)には羽柴秀吉の命により水口岡山城が築かれ、その城下町として発展した。
 関ケ原合戦後、この地を直轄地とした徳川家康は、水口を東海道の宿駅に指定、そして家康はしばしばこの地を通行し、宿内の大徳寺などに宿泊している。

 寛永11年(1634)徳川3代将軍家光は上洛に先立ち、道中となる水口に専用の宿館を築かせた。これが水口城です。作事奉行には建築や造園、茶道などで知られる小堀遠江守政一(遠州)があたった。構造は平城で、堀と石垣を巡らした本丸と北側の二の丸からなり、本丸はほぼ正方形で東辺中央に出丸をもち、本丸内部は御殿と四隅に櫓を設けた。本丸殿舎の建物構成は京都二条城に類似し、数寄をこらしたものといわれている。堀には注水坑はなく、今も水のかれることがないことなどから、別名碧水城と呼ばれている。

 家光上洛後は、幕府の任命した城番が管理する番城となる。天和2年(1682)には加藤明友が入封し水口藩が成立、水口城はその居城となり明治維新にいたる。なお、本丸殿舎は正徳年間(1711〜16)に撤去されたようである。
 維新後は廃城となり、建物や石垣の大半は撤去されたが、本丸敷地のみ保存され、昭和47年(1972)滋賀県の史跡に指定された。平成3年(1991)には、出丸の部分に矢倉が復元され、「水口資料館」として開館。
 水口城本丸平面図

の所が、本丸東側に位置する出丸部分。
出丸部分の修景が行われ、ここに矢倉が復元された。
黄色の枠内は、現在、水口高校の敷地になっている。

東南から望む復元された矢倉(水口資料館)

矢倉下の石垣は、矢倉建設に伴って築かれた平成の石垣

水堀と矢倉

左部分が本丸跡。なお、周辺には寛永頃の石垣も残存

形状をよく留めている石垣と堀
[水口城アクセス]
近江鉄道本線「水口城南駅」下車。北へ徒歩5分。


  地域別訪問城に戻る

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください