このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


▲旧宅内部

[旧宅の史跡指定]
●名 称 箕作阮甫旧宅
●所在地 津山市西新町6番地
●指定日 昭和50年3月18日
●指定理由 
 幕末の洋学者箕作阮甫が生まれ、少年期を過ごした生家として、阮甫の人格形成とその活躍の素地に大きな影響を与えた場所として重要なものであることによる。

[解体復元概要]
●総事業費 22,815、000円
 (解体) 着工 昭和50年3月18日 竣工 昭和50年3月28日
 (復元) 着工 昭和50年12月27日 竣工 昭和51年12月25日
●解体復元の箇所及び規模
 箕作阮甫旧宅(母屋、土蔵、井戸、勝手、便所、廊下、塀)150㎡
●解体復元方針
 箕作阮甫旧宅は、指定当時建物全体が老朽化し、損傷も激しく、根本的に解体復元を要する状態となっていた。
 解体に当たっては、旧来の構造、様式(阮甫在住期)を見い出すことに努めたが、解体の結果、当時の遺構は判明しなかった。そのために復元に当たっては、復元方針を江戸末期の町屋におき、解体実測調査資料、残存する痕跡、近隣の町屋等を参考にして復元工事を実施した。
(現地リーフレットより)

▲旧宅

[箕作阮甫旧宅案内]
●休   日 月曜日(月曜日が祝祭日のときはその翌日) 年末年始(12月29日〜1月3日)
●公開時間 午前9時30分〜午後4時
●入場無料

[地図]

 [町屋と箕作旧宅]
 都市に住む者の住居として、「町屋」と呼ばれる住居が発達するのは、室町以後のことである。とくに、江戸時代に入って、城下町の形成発展に伴っていっそう顕著になった。
「町屋」は、住居・店舗あるいは仕事場の複合したものとして考えていかねばならない。そこに居住する住人の職種によって、改変が繰り返されるのが通例であった。ただし、それは「町屋」全体に及ぶものではなく、店や土間だけの改変が著しく、畳になる場合や、板の間になる場合がある。したがって、絶対的なパターンはなく、基本型の幾つかの変化として考えるのが妥当である。

 元禄11年(1698)当時の西新町箕作家附近の構造をみると、通りに面した間口(表口)の幅に対して、奥行の長いのがまず注目される。道路に面した部屋は、店や仕事場となり、奥の方には「オクザシキ(奥座敷)」が取られ、その後庭は「センザイ(前栽)」、「ツボニワ(坪庭)」などと呼ばれ、小ぢんまりと造られている。さらにその奥に、離れ家、土蔵などが建っている。表の店の間には、防護のために格子が組み込まれているのが通例である。
(パネル展示より)

 [箕作家とその旧宅]

 箕作阮甫は、箕作貞固(三代丈庵)の第三子として、寛政11年(1799)9月7日この地に生まれた。箕作家は、近江源氏佐々木の族といわれ、室町時代六角承禎の父定頼が、近江国箕作城(現在の滋賀県五個荘町)に住んで箕作を称したのに始まる。

 その後箕作家は、戦乱の世幾多の変遷を経て美作の国に来て英田郡楢原村に住んだが、阮甫の四代前の祖義林は、津山に出て、森長継に仕えた。箕作家で最初に医業を営んだのは、阮甫の曾祖父定辨(初代丈庵)で西新町に住んでいた。

 父貞固(三代丈庵)が、天明2年(1782)10月24日津山松平藩の「御医師並」に召し出されて十人扶持をもって町医者から藩医に取り立てられたのである。父、兄の没後、文化9年(1812)、西新町から戸川町に移り住んだ。

 旧宅は、明治から大正年代にかけて、鍛冶屋、豆腐屋などに使用されていたが、昭和9年(1934)津山市教育会が顕彰のため木柱を建て、ついで昭和17年(1942)に津山市に買収された。

 昭和20年(1945)以後、宇田川・箕作顕彰会を中心として、その保存対策が検討されはじめ、文化庁の指導の下に、関係各方面の協力をうけて、調査研究が進められ、ついに昭和50年(1975)3月18日、洋学者箕作阮甫が生まれ少年期を過ごした生家であり、その人格形成と活躍の素地に大きく影響を与えた場所として、史跡として指定されるに至ったのである。
(パネル展示より)


 [箕作阮甫略歴]
 江戸時代後期の蘭方医、洋学者で名は虔儒、字は痒西、柴川と号した。寛政11年(1799)9月、津山藩医箕作貞固(三代丈庵)の三男としてこの地に生まれた。幼少期、藩の永田桐陰・小島天楽から儒学を学び、文化13年(1816)には京都に出て、竹中文輔のもとで三箇年間医術を習得した。文政6年(1823)、藩主の供で江戸に行き、津山藩医宇田川玄真(榛斎)の門に入り、蘭学の習得に努めた。以後、学問研究のため三年間江戸詰の許可を得た。いったん津山に帰ったが、天保2年(1831)以後は家族とともに江戸に住んだ。

 天保10年(1839)、幕府天文台に出役し、「藩書和解御用」を命ぜられた。嘉永6年(1853)アメリカ合衆国使節ペリ—来航時の外交文書の翻訳にあたった。また同じ年、ロシア使節プチャ—チンが長崎に来航した際は、筒井政憲・川路聖謨について長崎に行き、外交書簡の翻訳に携わった。安政2年(1855)3月隠居し、家督を秋坪に譲ったが、安政3年(1856)蕃書調所教授職となり、文久2年(1862)には、幕府の旗本に取り立てられた。

 文久3年(1863)6月17日、江戸湯島天神下で没した。
65歳であった。
(パネル展示より)
 
■箕作阮甫旧宅内部■

 [箕作阮甫旧宅平面図]
 
旧出雲街道に面した間口(表口)の西二間を格子窓、正面入口である残りの東二間を板戸(潜り戸付)とした間口の幅に対して、正面入口から土蔵までの奥行の長い造りとなっているのが特徴(平面図は現地パネル展示物に追記し引用)


正面入口から土蔵方向の眺め。左手は見学者受付所、中央通路右は土間・台所、左は居間・奥の間となる旧宅内部


吹抜けの土間。土間・台所を通り抜けると、中庭へと至り、井戸、便所、土蔵等が復元

土間側から見た中庭、井戸、土蔵

展示室となっている土蔵


土蔵側から見た井戸(左)、便所(右側の建物)と奥後方(旧出雲街道側)は居間・奥の間・土間部分

便所。便所の左は渡り廊下部分。旧宅を囲む塀は、旧のものには存在しないものであるが、防災、防犯等から当宅を安全に保護するために、新たに付加された



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