磯崎眠亀記念館の沿革
“備中茶屋町今神戸”とうたわれた茶屋町の繁栄は明治30年を中心に、地場産業の花形である花莚の輸出によって築き上げられた。そのころ花莚の輸出はアメリカを中心に日本の輸出品目中第三位というはなばなしいものであったが、その花莚の発明者こそ、磯崎眠亀その人である。眠亀は1834年(天保5年)小倉織商人磯崎家(茶屋町)に生まれたが、生来の開拓魂と天賦の創造性は、畳表織機を初め数々の改良や開発を試みていった。そして、1878年(明治11年)遂にイ草による広組縮織の技法を発明し、翌年、イ草に独特の染色法を発明してすばらしい錦莞莚の製造をなし遂げたのである。その間貧しさに耐え、奇人変人とののしられながらも、自分の志を捨てなかった眠亀の情熱が、花莚岡山の基礎を築いたと言うことができよう。
その眠亀の研究所であり住まいであったのがこの建物で、明治7年の建築と言われている。内部には発明家らしい種々の工夫が見られ、また、町屋としての価値も高かった。しかし、100年を経過して老朽化も激しく、倉敷市が解体修理し、昭和63年4月磯崎眠亀記念館として開館した。その後、平成12年11月6日、国の登録有形文化財となり一層注目されることになった。錦花莚の発明者として敬愛される眠亀を郷土の誇りとして、いついつまでも語り伝えたいものである。(文は現地説明板より) |
錦莞莚の創始者 磯崎眠亀
「錦莞莚」は精巧緻密な織りと美しい絵文様で大変人々を驚かせました。当時、岡山はい草や畳表の産地として有名でしたが、徐々に衰退の傾向にありました。しかし、この手織り織機の完成を機に、花ござの産地として新たに発展していきました。高価な「錦莞莚」は国内ではなかなか売れませんでしたが、輸出品として海外に活路をひらいていきます。特にイギリスなどからの需要が高く、明治の中頃には日本の重要輸出品の3位(1位:お茶、2位:生糸)をしめるまでになり、当時の日本では、大いに外貨を稼いだといわれています。(写真と文は説明板より) |
復元された錦莞莚織機(高さ2・3m、幅1・5m、奥行1・5m)
この機械できれいな色と模様のはなござ(錦莞莚)を作った。この織機(しょつき)の筬(おさ)に眠亀が一番苦労を重ねついに梯形筬(ていけいおさ)を発明して錦莞莚の織物が完成。錦莞莚の材料となるい草は、枝のない1本の細くて長い草ですが、そのい草を使って織り込む。い草を乾燥させて色々なきれいな色に染めて使う。(文は説明板より) |
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磯崎眠亀記念館(眠亀旧宅) |
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磯崎眠亀記念館は、眠亀の自宅であり、仕事場だった建物。大屋根に丸みをつけたり、二階の雨戸を外に突き出すなど、様々な工夫がなされている。手前の広場が記念館駐車場(無料) |
旧宅の玄関(カラーコーンの所)と通用口(右側)。現在では通用口が記念館の入口になる。眠亀没後には公民館として使用されたりもしていたが、1988年(昭和63年)に解体修理し倉敷市立磯崎眠亀記念館として開館
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1階作業土間などには眠亀の年譜や写真、それに「錦莞莚」のデザインなどが展示されている
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1階座敷 |
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(写真左)
2階への上り下りは階段でなくスロープとなっている。
眠亀は、研究の秘密が人から覗かれて外部にもれて、まねされないように研究室を2階に設けたため、研究の材料などを2階に楽に持ち上げることが出来ると考えだしたもの
(写真上)
重い荷物を吊り上げていた滑車 |
職人部屋(手前)と作業場(奥の部屋)。二階の眠亀の作業場は、「錦莞莚」誕生の地でもある。ここには、100年以上も昔につくられた「錦莞莚」の現物3点(いずれも倉敷市重要文化財)を展示 |
{アクセス}JR茶屋町駅から徒歩5分
{入館料}無料 {開館時間}9:00〜16:30
{休館日}毎週月曜日・祝日・年末年始・その他
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