このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


神宮寺山古墳  牟佐大塚古墳


じんぐうじやまこふん
神宮寺山古墳
    
   西川用水越しに望む神宮寺山古墳
   JR津山線と旭川堤防の間、北方の平地にある小丘は、北方の神宮寺山古墳と呼ばれている。

【所在地】岡山市北区中井町
【史跡指定年月日】昭和34年5月13日


神宮寺山古墳測量図(現地説明板より)
 神宮寺山古墳は、全長約150メートル、後円部径約70メートル、高さ約13メートルの大型の前方後円墳である。旭川が運ぶ土砂によってできた平野にあり、墳丘は大部分が盛土によって築かれている。後円部三段(平面図右側)、前方部二段(平面図左側)の段築で、葺石が施され、埴輪が立てられていた。

 中心埋葬は天計(あまはかり)神社が建つ後円部の頂部にある。竪穴式石室のものとみられる蓋石(ふたいし)が観察されるほか、さらに別の埋葬施設があった可能性も指摘されている。随伴して副葬品を入れるための小石室があり、鍬(くわ)・鎌(かま)などの鉄製農具、斧(おの)・鋸(のこぎり)・ヤリガンナ・ノミなどの工具、刀・剣などの武器といった大量の鉄製品が出土している。

 西暦四世紀後半から五世紀初めに築かれた吉備地方を代表する古墳で、旭川下流の稔り豊かな平野を統治した大首長の墓と考えられる。
(現地説明板の説明文に文を付け足しています)


神宮寺山古墳上り口
 石段を上がった所が後円部の頂部になる。


天計神社
 後円部の頂部に建つ。

後円部
 この古墳は市街地にほぼ全形を残す古墳としては珍しい存在である。


後円部

前方部
 現在では、前方部は墓地になっている。


後円部脇から見た前方部

御野小学校の北側に位置する神宮寺山古墳
【交通】JR岡山駅から岡電バス御野小学校前下車徒歩5分


むさおおつかこふん
牟佐大塚古墳

【所在地】岡山市北区牟佐
【史跡指定年月日】昭和5年2月28日


 牟佐大塚古墳は、県下三大巨石墳(総社市こうもり塚古墳・倉敷市箭田大塚)の一つに数えられています。墳丘の規模は直径約30メートル、高さ約8.5メートル。南側(実測図の右側)には横穴式石室の羨道(せんどう)部が開口しており、石室内に入ることが出来ます。石室は花崗岩の巨石を用いた両袖式。羨道(開口部から玄室入口の間)が玄室(石棺の置かれている部分)の約二倍の長さがあり、入口に向かってやや開く形状に特徴がみられます。石室の全長18メートル、玄室(げんしつ)の長さ6メートル、幅2.8メートル、高さ3.2メートル、羨道の長さ12メートル。全国でも十指にはいる規模の石室です。

 玄室内に復元長2.88メートル、幅1.6メートル、高さ1.5メートルの刳抜式家形石棺(貝殻凝灰岩製)が安置されています。40数キロメートル離れた井原市浪形山から運ばれた石材です。これら石室の構造や石棺などの特徴から、六世紀末に築かれた古墳と推定されています。
 この古墳は、赤磐市と岡山平野、美作とをつなぐ交通の要衝に築造されているため、当地域の交通権を掌握し、広範な政治的まとまりを確立した有力者(国造層)の葬られている墓と考えられます。
(現地説明板の説明文に文を付け足しています)


石室の羨道開口部(南側)
 ここから石室内に入る。


羨道開口部

羨道
 奥の石棺の置かれているところが玄室


玄室内の石棺
交通】
岡山市街から赤磐市へ通じる県道27号線を北東へ7.5Kmほど行ったところの新大原橋を渡って、最初の点滅信号を左に入り、さらに最初の細い路地を左に入った先に位置する。

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