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名古屋城

 名古屋城にあってもっとも名高いのは金鯱です。城の大棟に鯱を掲げることは室町時代の後期、城郭形態の完成した頃から始まったと言われている。当時は火除けのまじないであったものが後には城主の権威の象徴として大棟に飾られた。

 金鯱は尾張名古屋のシンボルとして昭和の世まで伝承されてきましたが、惜しくも第二次世界大戦の戦火により天守閣と運命を共にした。しかし、昭和34年10月、天守閣と共に再建され再び市民の前にその姿を見せるようになった。

◆別名◆
蓬左城(ほうさじょう)・金城(きんじょう)・金鯱城(きんこじょう)等々

▲不明門(手前の石垣は大天守台)〜多聞櫓の下をくぐる埋門(うずみもん)で、本丸御殿の大奥へ通ずる秘門であり、常に鍵が厳重に施され、別名を「あかずの門」といった。昭和20年5月14日、空襲で天守閣などとともに焼失。昭和53年3月、原形の通りに再建した。

平成の市民普請
◆本丸御殿復元工事中◆

◆歴史◆
■名古屋城は、関ヶ原の合戦後江戸幕府を開いた徳川家康が、慶長14年(1609)江戸幕府の東海道の要所として、また大坂(現大阪)方への備えとして清須(現清須市)から名古屋へ城を移すことを決意し、翌15年(1610)に着工、17年(1612)に完成させた代表的な平城です。
■普請(土木工事)を命じられたのは加藤清正、福島正則、前田利光など北国・西国の大名20名、城内の石垣には各大名や家臣たちがそれぞれの運んだ目印(刻紋)が多数残っています。その後、名古屋城は明治維新を迎えるまで、徳川御三家の筆頭尾張家の居城として栄えました
■明治に入り陸軍省の所管となり、名古屋鎮台司令部や兵舎がおかれましたが、明治26年(1893)に宮内省に移管され「名古屋離宮」となりました。昭和5年(1930)12月、離宮が廃止、名古屋市に下賜され、翌年2月から一般公開が始まりました。昭和20年(1945)5月の空襲で大小天守閣と本丸御殿などが焼失しましたが、焼失を免れた3つの隅櫓と3つの門、御殿障壁画1,047面が国の重要文化財に指定されています。昭和34年(1959)に大小天守閣と正門は、ほぼ昔どおりの外観で再建されました。

◆重要文化財◆
西南隅櫓・東南隅櫓・西北隅櫓・表二之門・旧二之丸東二之門・二之丸大手二之門
本丸御殿を飾った障壁画

▲旧二之丸東二之門〜「東鉄門」ともいう。高麗門形式で、もとは二之丸の東二之門(外門)として桝形を形成していたが、昭和38年(1963)に解体、昭和47年(1972)に現在地、本丸東二之門跡に移築された。

▲二之丸大手二之門〜この門は二之丸西側にある桝形の外門となるもので、内門である大手一之門(現存せず)と共に古くは西鉄門といわれ、二之丸正門を形成していた。俗に桝形御門ともいい、一間一戸、屋根切妻造本瓦葺で、高麗門の形式をとる。

▲表二之門〜古くは南二之門と呼ばれ、本丸追手桝形の外門に当たるもので、門柱・冠木とも鉄板張りとし、用材は木割りが太く堅固に造られている。袖塀は土塀として数少ない遺構である。

▲竹林豹虎図(ちくりんひょうこず・名古屋城大天守閣にて撮影)〜本丸御殿の室内を絢爛豪華に飾っていた障壁画。

▲大天守(右)と小天守〜戦災で焼失したあと、昭和34年(1959)に外観を復元して、鉄筋コンクリートで再建された。小天守は2層(2階地下1階)、大天守は5層(7階地下1階)。両者の地階を橋台で結んだ連結式天守の形式をとる。名古屋城の場合、天守と小天守とを渡櫓の代わりに土塀(写真中央部分)で挟んだ橋台(きょうだい)で結ぶ。

▲橋台から見た小天守

▲橋台から見上げる大天守

▲橋台の内側
両端には土塀が築かれている。

▲正門〜明治43年に旧江戸城内の蓮池御門が移築されたが、第二次世界大戦により焼失したため、昭和34年、天守閣と共に再建された。

◆再建造物◆
大天守閣・小天守閣・正門・不明門

▲西北隅櫓〜戌亥(いぬい)櫓とも清須櫓ともいわれる屋根3重・内部3階の櫓。他の建物の古材を転用して建築されており、外部北面、西面に千鳥破風が作られ、「落狭間」を備えている。

▲東南隅櫓〜辰巳(たつみ)櫓ともいわれ、屋根2層、内部3階、屋根入母屋造り、本瓦葺、白塗籠造りである。東・南二方には、張り出した「落狭間(おとしざま)」が設けられている。この櫓は築城当時のものであり、鬼瓦には葵の紋が見られる。

▲西南隅櫓〜古くは未申(ひつじさる)櫓ともいわれ、屋根2層、内部3階の櫓である。外部に面した西・南両面には軍事用の「落狭間」(石落し)を張り出して屋根は千鳥破風にし擬装している。この櫓は、濃尾大地震で石垣と共に崩壊したが、大正12年(1923)宮内省によって修理復旧され、鬼瓦などに菊花紋が見られる

▲重要文化財の西南隅櫓(右)と再建された大天守閣(左)
江戸幕府御三家筆頭、尾張徳川家61万9500石の居城。江戸城・駿府城などにつづく、家康による「天下普請」とよばれる一連の築城工事の一環として西国の諸大名20家が築城にかかわった。

<外堀と大天守(北面)を望む>

▲本丸御殿復元イメージ
平成21年(2009)1月に工事が始まり、平成30年(2018)の完成を目指している。

▲本丸御殿跡全体を「素屋根」という大きな屋根で囲み、御殿の復元工事が行われている。素屋根内部は公開されており、伝統的な木造建築の作業が見ることができる。

▲古写真
名古屋城本丸地域建物(全て焼失)

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◆所在地◆
名古屋市中区本丸

◆地形種類◆
平城<平地だけを利用して築かれた城>

【交通アクセス】
■名古屋駅から地下鉄東山線(栄駅乗換え)、地下鉄名城線「市役所駅」下車(進行方向前よりに乗車、7番出口)。東門まで徒歩3分、正門まで徒歩10分。

■市バス「市役所」下車、または、なごや観光ルートバス“メーグル”「名古屋城」下車。

名古屋城の概要

◆スライドで巡る名古屋城◆
遺構と見どころ

◆名古屋城案内図◆

▲古写真
本丸御殿車寄(焼失)南正面

本丸御殿跡から見る小天守と大天守(写真は本丸御殿復元工事が始まる前の状況)
現在(平成22年2月現在)、この平坦部である本丸御殿跡では本丸御殿の復元工事が行なわれている。

名古屋城西側から望む外堀と大天守閣
 名古屋市の中央部に位置する台地上に築かれた城。
長大な石垣や水堀、多くの櫓や城門などを備え、大兵力を蓄えることができる。
 江戸城・大坂城と並ぶ日本三大名城のひとつと称された。

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