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中津城
【大分県中津市】

天守のない城であったが、本丸に建つ5重の模擬天守と模擬櫓。堀は薬研堀(やげんぼり) 

【歴 史】豊臣秀吉による九州攻めの立役者・黒田官兵衛孝高(よしたか。秀吉の軍師。出家後、如水と名乗る)が、中津12万石を拝領して、天正16年(1588)から築城、動乱期のため未完成となった。関ヶ原合戦の戦功で、黒田氏は筑前へ転封(筑前52万石)。その後、細川忠興(ただおき)が入って城を大改修する。細川氏はのちに小倉城を築いて移り、中津城は支城とされた。以後城主には、小笠原氏、奥平氏が入り明治維新に至っている。 

<中津川沿いから模擬天守を望む>
 中津城は中津川の河口沿いに位置しており、北は周防灘、西は中津川に面し、東は二重、南は三重の堀をつくり、外堀には「おかこい山」と呼ばれる土塁をめぐらせていました。水門から海水が入って堀の水かさが潮の干満で上下する水城です。また、城郭の形が扇の形をしていたことから、「扇城」とも呼ばれています。

 現在の中津城天守閣は昭和39年(1964年)に建てられたものですが、城の石垣は築城当時のものが残っています。中津城は黒田、細川、小笠原、奥平氏とつづく居城です。1588年(天正16年)に黒田官兵衛(孝高)が中津城の造営を始めました。「黒田如水縄張図」には、中津城の本丸、二の丸、三の丸とともに、京町や博多町なども記され、現在の町名はこの時代に由来するものもあります。

 1600年(慶長5年)、黒田氏の代わりに入城した細川忠興は黒田官兵衛が計画した町割りを引き継ぎ、中津城下を整え、ほぼ現在の中津城の形が整いました。1632年(寛永9年)、細川家に代わり、譜代大名の小笠原長次が入封し、城下町の整備を行いました。中津に祇園祭を広めたのも小笠原氏です。1717年(享保2年)、第8代将軍徳川吉宗から西国の抑えを期待された譜代大名の奥平昌成が中津城に入城しました。以後1871年(明治4年)の廃城まで、中津藩主の居城として存続しました(現地説明板より)

本丸石垣内堀(薬研堀)は当時のまま残る。
日本三大水城の一つ。あとの二城は
 高松城(香川県高松市)と今治城(愛媛県今治市)

<アクセス>
   中津駅より徒歩約15分。または駅レンタサイクル有り
   
    <訪城日:2018年11月再訪問>

 中津城下絵図

(現地説明板に追記、修正)
大手門黒門椎木門鉄門栗木門水門西門本丸二ノ丸三ノ丸松の御殿跡

中津城下町と中津城 
(文と絵図は現地説明板より)

小倉口
 城下町外堀の西南隅にある小倉口は、西方の小倉への起点である。また、西から小倉口を入ると近接した西門から城内へと通ずることができる重要な入口であった。門の構造は二本の柱に横木を渡しただけの冠木門(かぶきもん)で、監視をする番所が設けられていた。
 近年せばめられた外堀跡の水路には小さな橋がかかり、小倉橋の文字が刻まれているが、江戸後期の絵図では、欄干のある太鼓橋として描かれている。

(中津城と城下町旧地図。現地説明板に追記)
城戸口とは~天正16年(1588)黒田孝高(如水)が丸山の地で中津城の建築をはじめた。慶長5年(1600)入国した細川忠興(三斎)は城壁・櫓を修築し、慶長12年(1607)三の丸増築工事が竣工した。元和6年(1620)完成時の中津城には二十二の櫓と八つの門が設けられていた。
 また忠興は城下町の体裁を整えるために「町割令」を出す。士邸・町割などが整備され城下町としての体裁が整ったのもこのころである。このとき城下の外郭に六ケ所(小倉口、広津口、金谷口、島田口、蛎瀬口、大塚口)の城戸口(木戸口)を設け、見付番所を配して城下の出入りを監視した。


西門
 中津城の西南隅に位置する西門は、大手門と同じ「櫓門」型と思われる。豊前街道の発着所「小倉口」に一番近い西門は堀の幅を広くとり、その奥に三方を大石で囲った「枡形」をもつ「搦手門」である。武器や道具類が収めてあったこの櫓門は、明治2年(1869)10月、焼失した。
  
南部小学校にあった中堀の土塁<おかこい山>
 かって中津城下町は内堀、中堀、外堀沿いに堀と土塁がぐるりとめぐる、守りの固い構造でした。中津城下町では現在数ヶ所土塁が確認されており、中津では町を囲む土塁を「おかこい山」と呼びます。絵図の、中堀沿いに描かれている松並木(薄緑部分)がおかこい山です。南部小学校の中にあったおかこい山と中堀は、現在の歯科医院の敷地から西門まで続いていました。歯科医院の庭の竹林が、おかこい山の名残りです。



右上絵図、現在地の場所(南部小学校西側)
 今は無くなっていますが、道路の薄緑部分がおかこい山(土塁)があった部分(10m)、手前が中堀跡になり左右に細長く築かれていた。左側に竹林があり、道路奥の鳥居のあるところは中津城。なお、大手門跡は、塀に沿って奥に進むと十字路があり、右に曲がった先に残る。

 このあたりは中津城三ノ丸跡になりますが、この道は(参道)明治期に新設された道です。
  【大手門跡周辺の幕末絵図(現地説明板に追記)
  
 は、左写真の場所。幕末絵図には大手門の枡形虎口が描かれていますが、現在は白四角部分(南部小学校北東側)が現存しています。
 中津城築城時に由来するとされる京町、姫路町、博多町などの町屋は、城の玄関口である大手門前におかれました。明治期に、本丸石垣の一部を壊し本丸へ入る道路が新設されましたが、城内への本来の道は、町屋側から掘りを渡り、大手門⇒黒門⇒椎木門⇒本丸へと続くものでした。
 下の写真は、ⒶⒷから見た写真です。


から見た大手門石垣


大手門~中津城三の丸の東端に位置する大手門(追手門)は「馬出無しの枡形虎口」である。中津城の外堀より三の丸(大手門)に入ると、そこは前方と左右の三方を大石で囲んだ奥行約13間(23m)、巾約3.3間(約6m)の「枡形」がある。

 面積約43坪(138㎡)の大手門「枡形」は騎馬武者であれば約30騎(供武者(ともむしゃ)60人を含む)、徒士武者(かちむしゃ)であれば約250人が収容できる。枡形の前方右側には黒田如水によって滅ぼされた犬丸城の古材木を使って造られたといわれる「矢倉門」型の大手門があった。

から見た大手門石垣
 大手門では、城に入る者に威容を示すため、縦石積みや、石の最も広い面を表とする「鏡積み」という積み方をしています。

 平成16年に石垣解体修理を行い、石垣の内部構造が明らかになりました。築城当初の石垣は、地点の目地から左側と考えられます。石垣は地点まで継ぎ足された後、さらに拡幅され、枡形虎口をつくり、現在の南部幼稚園敷地内に大手門がつくられました。そして、細川時代の1620年頃、8つの門と22の櫓が完成し、ほぼ現在の城の形が整ったとされています。


黒門跡
 左に曲がったところが、椎木門跡。


椎木門跡(黒門側)
 鳥居の奥は本丸。当時は枡形虎口で、現在のように本丸跡は見えなかった。


椎木門跡(本丸側)
 本丸南東隅に位置する入口。絵図をみると、入って西側正面(鳥居の右前方)は塀でふさがれ、北側(写真左側)に折れて門をくぐるという「枡形虎口」の構造であった。また絵図では、椎木門をくぐると扇型に弧を描く石垣が描かれており、その石垣内に2つの入口が描かれている。下写真はそのうちの一つの入口。




本丸跡
 左より、模擬天守(奥平家歴史資料館)、模擬櫓、黒田官兵衛資料館。


水門跡
 虎口の石垣が残る水門。
 中津城の石垣

ⒶⒷⒸⒹの石垣を巡る
(地図は現地説明板に追記)

  Ⓐの石垣
  
 字型の目地が通る石垣の右側は、「折あらば天下人に」という野望を秘めた黒田孝高(如水)時代の本丸跡の石垣である。左側の石垣は、後から積まれた細川忠興(三斎)時代のもので、忠興自慢の石垣である。両時代の石垣とも花崗岩が多く使われている。
 黒田時代の石垣は四角に加工された石が使用されています。黒田氏が中津城築城をはじめた天正16年(1588)当時は石垣には未加工の自然石を用います。しかし、ここではほとんどが四角に加工した石で造られています。これは川上の福岡県上毛町にある古代(7世紀)の遺跡「唐原山城」(旧:唐原神籠石(とうばるこうごいし) 国指定史跡)から持ち出された石で、直方体の一辺が断面L字型に削られているのが特徴です。黒田氏が持ち込んだ古代山城の石は、川沿いの石垣()に多く用いられています。


中津城模擬天守
 模擬天守の建つ石垣右側が黒田氏と細川氏の石垣。



黒田氏時代の石垣加工痕
 白壁の屋根が取り付けられた石には直方体の一辺を削る加工痕がある。

の石垣

河川敷公園側の石垣
 この場所の石垣には、古代山城の石(手前と鉄門右側)やその真ん中に未加工の自然石が使われており、奥には鉄門が造られた。
 鉄門はトンネル状になっており、門の中の階段を登ると本丸内に通じていた。



古代山城の石を使った石垣
 川沿いの石垣には四角く加工された石が多用されています。これは、「唐原山城」から持ち出した石で築かれているためです。



未加工の自然石を使用した石垣(黄色囲み)
 四角に加工された石垣にはさまれた未加工の自然石の石垣は細川時代には造られていたと思われる。鉄門奥の石垣は、古代山城の石が使われている。


鉄門跡(黄色囲み)
 鉄門とは、その名の通り扉の表面に鉄板を張り付けた強固な門で、門の上には長屋状の櫓が建てられていました。現在、鉄門跡は埋められ、石でふさがれています。


の石垣~九州最古の近世城郭の石垣を見るならココ!~
 堀に張り出した出角の石垣が最も天正時代の特徴を持っている。「反らない」、「加工した石を使わない」のが特徴。

 中津城は1587年に入国した黒田孝高が1588年から築城に着手した城で、九州最古の近世城郭の一つです。同じ年に建築された他の城はその後破却されたため、九州で唯一当時の石垣が地表面に見えるのが中津城なのです。

 石は全て未加工の自然石を使用しています。小さな石を乱雑に積んでいるように見えますが、自然石の特徴を活かした積み方で、石の奥行きは長く、縦目地横目地が通りません。これは石垣建築では最も高度な安土桃山時代の技法です。当時穴太衆(あのおしゅう)と呼ばれる石垣造りを得意とする集団が用いた技法で、「穴太積み」と呼ばれています。中津城の石垣造りにもその技法を持った石工が関わったと考えられています。

 石垣は反りがなく直線的ですが、両端より中央の方がより傾斜し、さらに真上からみるとゆるやかな弧を描きます。これを「輪取り」といいます。力を内側に集中させ、地震等があっても前に崩れにくい工夫がされています。

 現在では、この技法はすたれてしまいました。中津市では、昔の技法を復元することをめざし、石垣の文化財としての価値を損なわないよう、解体から復元まで慎重に工事を進めてきました。解体修復工事は石垣が痛んでいる部分のみ行っています。


の石垣
本丸南側の石垣
 大鳥居の左奥に、九州最古の近世城郭の石垣がよく残り、大鳥居の右側は、元の高さまで復元された東側の石垣(右の写真)です。

 明治4年、本丸南側の石垣の一部が壊され、本丸内に通じる道が造られました。左右に分けられた石垣の間に立つ大鳥居は昭和7年に建てられたものです。大鳥居東側の石垣は、戦後地表面から上半分が撤去され、堀は埋められ残った下半分の石垣は地下に見えなくなりました。.
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元の高さまで復元された東側の石垣
 中津市では、平成13年~20年の修復工事で、見えなくなっていた元の石垣を堀だし、その上に新しい石垣を復元しました。

 写真黄色のラインから上が復元を行った部分です。石垣の裏側の面は、土手だったようですが、安全性を考えて石を積みました。奥に見える櫓跡の石垣は18世紀頃に改築されたと推定されています。

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