このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

国指定史跡
七尾城跡

石川県七尾市>

▲調度丸から望む桜馬場下の5段石垣。段状に築造された石垣は、本丸、二の丸の斜面でも見られる。
このような造成段による曲輪を計画的に多数連ねていることが七尾城の特徴である。

▲古道(旧大手道)側から望む桜馬場下(北側)の5段石垣
5段に組まれた北側の石垣は、七尾城跡でも最大規模を誇る。
【地形】
 JR七尾駅から南へ5km。石動山系の北端に位置する標高300mの松尾山(通称「城山」)の尾根に築かれた山城。日本五大山城の一つ。
    <城山展望台から望む七尾城本丸跡>
    
    本丸北側には3段の石垣が組まれている。  
【縄張】
    
   (現地案内板より)
 
山上には本丸・遊佐(ゆさ)屋敷・桜馬場(さくらのばば)・西の丸・二の丸・三の丸などの曲輪を配した。また、菊、松、竹、梅、亀、龍、虎と七つの郭名があったので、七尾城と称したという。城は尾根を切り開いて、いくつもの曲輪を並べた典型的な連郭式山城である。
現在地は、本丸北駐車場で、ここまで車で来ることができます。
【文化財史跡区分】
 国指定史跡。本丸から三の丸にかけての一帯は、地形を巧みに利用した規模雄大な縄張と、石垣・土塁・空堀、それらを備えた曲輪の保存状態が良いというので、昭和9年12月28日国の指定史跡となった。
【築城年・築城者・城主】
 築城の時期については定かでなく、室町幕府の将軍を補佐する官領職を勤めた畠山氏の有力庶流として、応永15年(1408)に独立した能登畠山氏(能登国守護)が、戦国時代(16世紀初頭)に能登府中(守護所)にかわる新たな拠点として松尾山に詰の城を構えた。これが七尾城である。
 その後、能登畠山氏数代にわたって改築を行い、天正5年(1577)、上杉謙信に滅ぼされるまで、9代170年間能登畠山氏の居城となった。
 謙信の死後、能登ノ国は織田信長の支配下となり、その武将前田利家が七尾城に入ったが、山があまりにも高いため、天正10年(1582)、七尾湾に近い小丘に小丸山城を新しく築いて移った。七尾城は、前田利家が小丸山城を築いたとき、すでに廃城となっていた。建物は壊されたが、城の郭跡はそのままの状態で残され、現在もその郭跡をよく残している。
【概略】
 この城跡は、室町時代能登国の守護であった畠山氏が、歴代居城とした所である。石動山脈の北端、七尾湾が一望できる標高約300メートルの山頂部を削平して本丸を置き、これを中心として急峻複雑な地形を巧みに利用し、東方に長屋敷、西方及び北方にかけて西の丸、二の丸、三の丸等を構えた規模雄大な山城である。天正5年(1577)9月、上杉謙信がこの城を囲んだ際、折からの月明に感嘆して詠じたと伝えられる漢詩
   
       
 霜満軍営秋気清  数行過雁月三更
       
 越山併得能州景     遮莫家郷懐遠征
 
       
 
霜は軍営に満ちて秋気清し
        数行の過雁(かがん)月三更
        越山(えつざん)併(あわ)せ得たり能州(のうしゅう)の景
        遮莫(さも
あらばあれ)家郷の遠征を憶(おも)う

 が、広く世に称賛されたことで、本城の名を高めている。その後、幸いにも自然災害や開発等の厄にもあわず、各尾根上の郭跡や石垣は良く保存され、わが国中世における山岳城郭史上優れた遺跡である。
<城跡説明板より転載・加筆>
【遺構】
 本丸、二の丸、桜馬場などの斜面に数段に積まれた石垣、各曲輪跡、空堀、土塁などが残る
【関連施設】

左より、七尾城史資料館、懐古館(古民家・国登録有形文化財)、城山展望台
【アクセス】
 JR七尾線「七尾」駅より車で15分。本丸下まで車道が整備され駐車場(本丸北駐車場)あり。
 (訪城日:2018年5月再訪城)
〜七尾城散策〜

(現地説明板に加筆)

本丸北駐車場からの登城口
 「これより本丸跡に至る」の標識が建つ。先ずは調度丸を目指します。

調度丸(平坦部)と5段石垣(左奥後方)
 登城口から数分で調度丸と桜馬場下の5段石垣が見えてきます。

調度丸(ちょうどまる)
 弓矢などの武具(調度)を整えた場所。多数の出土品が、ここで発見されている。石塁や段差などが残る。

調度丸跡と後方は桜馬場下の5段石垣

桜馬場下の5段石垣
 階段を登ると左折れとなり、本丸、遊佐屋敷、桜馬場へと至る。

桜馬場下の5段石垣
 石垣は自然石を加工することなく積み上げる野面積みで築かれている。

階段の途中から見た桜馬場下の5段石垣
 5段石垣手前の階段を上がると右写真の所に至る。

遊佐屋敷と桜馬場を区切る石垣
 石垣左が遊佐屋敷、右が桜馬場で、左へ進み本丸を目指します。なお、右へ進むと、二の丸、三の丸へ行きます。石垣の右側(桜馬場)から見た本丸への登城道が下写真です。
  本丸への登城道(奥の石段を上がり右へ進む)

石垣手前の曲輪は桜馬場跡、石垣向こう側は本丸すぐ西側に接する遊佐氏の屋敷跡

本丸北側の3段石垣
 石垣は、戦国期の山城に多い「野面積み」の工法を用いて築かれている。

本丸登城道右側の石垣の連なり

別角度から見た本丸北側の3段石垣

横から見た本丸北側の3段石垣

本丸跡
 七尾城の中心となる曲輪。東西の長さが50目m、南北の長さが40mあり、二の丸までの一連の曲輪とともに主郭を構成する。

本丸櫓台

本丸土塁
 土塁右側には3段の石垣が築造されており、土塁左端の枡形虎口を進むと桜馬場へと至る。桜馬場側から見た虎口が右写真。

桜馬場側から見た本丸虎口
 奥後方は本丸櫓台。この通路は左下写真のところに通じる。

石垣左は桜馬場跡、右が遊佐屋敷跡
 桜馬場跡は、軍馬の調練を行った馬場などと言われる。桜馬場跡から温井(ぬくい)屋敷跡、二の丸跡へ向かいます。

九尺石
 温井屋敷虎口には、巨石「九尺石」が使用されていた。城の鎮護のかなめ石。石の大きさにちなんでこの名がある。温井屋敷跡は、城主畠山氏を補佐する八臣(四臣四家)の一人温井氏の屋敷跡。訪問時、この先は立入禁止でした。

温井屋敷側から見た二の丸南側斜面
 
この登城道の前方が二の丸跡。道の左、二の丸南側斜面には上下2段の石垣が築かれている。

二の丸斜面下段の石垣

二の丸斜面上段の石垣

二の丸跡
 この曲輪は、本丸に次ぐ第二の拠点であり、尾根の分岐点に築かれ、周囲をたくさんの曲輪が取り巻いている。
 なお、三の丸より先は未訪問です。

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