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撫川城 / 庭瀬城


撫川(なつかわ)城址
堀、石垣、城門などが残る。

庭瀬(にわせ)城址
石垣、堀が一部残る。

【所在地】
<撫川城址>岡山市北区撫川
<庭瀬城址>岡山市北区庭瀬
岡山県指定史跡 撫川城址
 ■撫川城は泥沼の地に築かれた典型的な「沼城」です。昭和32年に岡山県指定史跡(第1号)になっている。
 ■城の平面形状は、東西77m、南北57mの長方形を示し、幅15mの濠がぐるりと巡っています。西半に高さ4m強の高石垣(野面積み)と東半には土塁が現存しています。また北西隅には、櫓台と思われる石垣の張り出しが見られます。
 ■この城は永禄2年(1559)毛利氏配下の備中成羽城主三村家親(いえちか)が、備前の宇喜多直家の侵攻に備えて築城したといわれています。その後、同盟していた毛利氏に離反した三村氏は「備中兵乱」で毛利氏に滅ぼされてからは、城には毛利氏の武将・井上豊後守有景がこの城を守備したと伝えられている。
 ■備中高松の役(天正10年[1580])には毛利方の国境防備の城「境目七城」の一つとなり、当時の城主井上有景は、秀吉軍と交戦し破れ、この地は宇喜多の支配下になり、以後20年ほど城番を置いていた。
 ■天正14年(1586)頃に、宇喜多氏の重臣・岡利勝が近世的な築城方式を取り入れた野面積みの石垣を築き、築城を始めたと伝えられ、現在その一部が城の西側を中心に残り当時の面影を残している。
 
 ■慶長2年(1602)関ヶ原の役で東軍につき功績のあった戸川逹安(みちやす)が、東にある庭瀬城跡の初代藩主として2万9千2百石を与えられたことにより、この地域の中心は庭瀬城跡に移った。延宝7年(1679)庭瀬藩主4代安風が死去、跡継ぎなく庭瀬藩戸川家は断絶、庭瀬藩は改易されたが、このあと弟の戸川逹富(みちとみ)が安風の名跡を継ぎ、知行所5千石の交替寄合となり、戸川撫川知行所を設ける。
 ■本陣は、城郭を割り、二の丸(庭瀬藩跡)を残した本丸(撫川城址)におかれ、本丸と三の丸を合わせて撫川城を中心に陣屋を設けた。以後庭瀬城と撫川城は分離し、現在の二つの城跡の呼び名のもととなる。戸川氏は交替寄合衆(参勤交代をする外様の旗本)として逹富(撫川知行所の初代)から8代まで続き、明治2年(1869)版籍奉還に伴い領主の座を退くまでの約190年間を治めた。撫川城跡と庭瀬城跡とに呼び分けられていますが、もともとは一体の城だったのです。
<文は撫川城址整備委員会、下東町内会発行のパンフ及び現地説明板より転載・加筆>



撫川城址公園入口と知行所総門
知行所=江戸時代、1万石以下の武士(旗本など)の領地で、知行とは、武士に与えられた土地のこと。


撫川知行所総門
この門は明治になって現在地に移築したものと伝えられています。

東半に残る土塁

城内から見た土塁


城址入口左方の野面積み石垣

野面積みの石垣
左端の張り出している石垣部分は櫓台と思われる。


櫓台と思われる石垣

南西隅の石垣

庭瀬城址
庭瀬藩史略年表
<前史>
 撫川城と庭瀬城は、もともと一体の城郭とみられ、そのため文は撫川城説明文と重複します。
■1559 三村家親が庭瀬城(現撫川城址・本丸)を築いたといわれる。(一説には子・元親(もとちか)ともいう)
■1567 元親は明禅寺合戦で宇喜多直家に大敗。
■1574 元親は同盟していた毛利に反旗、敗れて翌年、三村一族滅亡(備中兵乱) 
■1582 羽柴(のち豊臣)秀吉の中国攻めを毛利の武将・井上有景は庭瀬城を死守。羽柴・宇喜多軍の高松水攻めの時、本能寺の変がおこり急ぎ毛利軍と和睦。毛利は高梁川以西に退却。このあと庭瀬城は宇喜多の支配となり重臣・岡利勝が庭瀬城主となる。利勝は二の丸(現庭瀬城址)の築城に着手、庭瀬往来の整備や新田開発にも尽力したといわれる。

<庭瀬藩史>

■1602 戸川逹安 石高2万9千2百で入部し、初代庭瀬藩主となる。
逹安は元宇喜多家の重臣、父のあとを継いで常山城主となる。主家と対立逃れて徳川家康の保護を求め、関ヶ原の合戦で功。逹安は二の丸(現庭瀬城址)を完成、三の丸も築城する。居館を二の丸に構え、富商を児島から招き庭瀬陣屋を整備する。
■1627 戸川正安 二代藩主となる。
■1669 戸川安宣 三代藩主となる。
■1674 戸川安風 四代藩主となる。
     安風幼くして死、跡継ぎなく庭瀬藩戸川家は断絶(1679)
     このあと弟逹富が戸川家の名跡をつぎ戸川撫川知行所(5千石)を設ける。
     本陣は本丸におかれ、以後庭瀬城と撫川城は分離し、現在の二つの城址の呼び名のもととなる。
 
 安風亡き後、庭瀬藩は改易となり、以後天領となり代官所が置かれた。その後、20年間は倉敷代官の支配する代官所と藩主の支配する時代があり、以後庭瀬藩主として1699年に板倉氏(2万石)が入封し、明治維新までに10代170年余り支配した。

■1679 第一次代官所支配(〜1684)
■1684 久世重之 石高5万石で入部し、庭瀬藩主となる。(〜1687)
     丹波亀山城主に転出
■1687 第二次代官所支配(〜1693)
■1693 松平信通 石高2万3千石で入部し、庭瀬藩主となる。(〜1697)
     出羽上山城に転出
■1697 第三次代官所支配(〜1699)
■1699 板倉重高 石高2万石で入部し、庭瀬藩主となる。
以後、板倉家が代々の藩主を引き継ぐ。10代藩主板倉勝全のとき明治維新(1868)となる。版籍奉還(1869)、廃藩置県(1871)と続き板倉庭瀬藩亡ぶ。
<文は庭瀬藩史略年表(城址設置箱の案内パンフ)より転載>



跡地の一部に残る堀と石垣
堀に植えられているのは大賀ハス。


現在では板倉藩・旧庭瀬城址と呼ばれる城内の様子

▲庭瀬城御絵図(現地説明板より転載)
1=庭瀬城址 41=撫川城址


▲庭瀬城全景(古絵図と文は現地説明板より転載・加筆)
 城郭については、当時の景観がほとんど失われており、わずかに「庭瀬城址」の石碑によって城跡を偲ぶほかはありません。当時の城郭の様子は、安政4年(1857)に作成された庭瀬城の全景を描いた「古絵図写」でうかがえます。庭瀬往来に面した北側に門があり、その前面には外堀が東西方向に掘られています。城内は、内堀によって二重に画されており、「家中屋敷」、「番所」、「中屋敷」、「内屋敷」、「御馬場」などがあったことがわかります。城の中心となる「御殿」は、家屋6軒からなり、裏側には池を配して植栽をおこなった庭園や茶室が設けられたようです。現在の地形と照合しますと、城郭は東西南北で200mの範囲におさまる規模であったと推測されます。


旧庭瀬港(内港)と常夜灯

▼庭瀬陣屋町古絵図
(古城跡=撫川城跡 庭瀬御屋敷=庭瀬城跡)

 ■庭瀬は、近世まで足守川とその支流を利用した船運が盛んに行なわれており、地区内に張り巡らされた堀・水路を水運等に活用し、水郷のまちとして発展してきた歴史を有しています。さらに陣屋町を東西に貫く庭瀬往来(鴨方往来)は、近世山陽道とも結ばれていることから、陸路と水路の交わる交通の要地であったといえます。
 ■1600年代中頃の寛文年間の上の絵図によれば、絵図の下方に描かれている足守川の河岸には、瀬戸内海を航行する船が出入りし、足守藩の年貢米の積出港としても重要な機能を有していました。この河岸で積荷を海船から小舟に積替えて旧庭瀬港(内港)に入ります。そこには、港町が形成され、庭瀬藩の商業・交通の中心地として栄えました。水路に面しては雁木(階段状の船着場)が設けられ、入港する船のため木造で大型の常夜灯が1700年代に建てられていました。
 ■明治24年に山陽鉄道(現在JRの山陽本線)が開通して以降は、船の往来も減少し、昭和30年代には水路も半分ほどの幅までに埋め立てられ、また常夜灯も昭和29年の暴風により被害をこうむり、すべて取り壊されましたが、その基礎(地伏石)は原位置で保存されていました。
 ■庭瀬・撫川地区の堀や水路による町割り、城跡や家屋の街なみの景観保全を目指す住民運動は、これまで活発に行なわれており、その盛り上がりを受けて、当時の古写真や地元の方々の記憶をもとに、埋め立てられていた旧庭瀬港(内港)を部分的に再現しました。また当時の常夜灯の石積護岸の一部と約3m四方の基礎(地伏石)を使用して常夜灯を再建し、当時の旧庭瀬港(内港)の景観を平成19年度に復元しました。
<現地説明板より>



常夜灯


復元(平成19年10月)された旧庭瀬港と常夜灯

雁木(がんぎ)
雁木は、江戸時代から昭和初期にかけて船への乗り降りや荷役のために使用されていた階段状の船着場で、堀の水面の上下に係わらず、船を接岸することができた。


天秤石(てんびんいし)
この天秤石は、平成19年10月1日庭瀬港の工事のため旧庭瀬港跡の外堀を浚渫(しゅんせつ)したとき、常夜灯近くの外堀底から出てきた。常夜灯の南100mくらいの所には、庭瀬藩板倉家の米蔵があったといわれており、この天秤石は米蔵の米を精米するときに使用されたものではないかと考えられている。


上の絵(図)は、米の精米道具で、天秤石を中心に木製の柄の先端に杵を取りつけ重しの石を載せ、後方に人が乗り体を動かすことにより、杵を上下に動かして臼(うす)の中の米を突き精米する道具。

大手門跡
手前が町家側、橋の後方は侍屋敷側。
旧庭瀬港のすぐ西に位置し、左手が旧庭瀬港になる。

高札場跡
高札(こうさつ)は江戸時代、幕府や藩の禁令などを板面に墨書きして、往来の行き来の多い目立つ場所に掲示した。



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