このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

発掘調査の成果にもとづいた
中世の城の復原

日本100名城の一つ

根 城
所在地青森県八戸市大字根城字根城
地形種類平城(標高20m)
築城年代1334年(建武元年)
築城者南部師行(なんぶ もろゆき)。陸奥国の国司、北畠顕家(きたばたけ あきいえ)の指示で城を築く。根城(ねじょう)は北奥羽地方を治める「根の城」となった。
指定区分国指定史跡(昭和16年)
遺構・現況遺構〜8つの郭、堀、土塁、旧八戸城東門。平成6年に本丸の主殿・工房・馬屋・番所・井戸・柵・木橋など、発掘調査の成果にもとづいた中世の城が復原、史跡公園として整備されている。
アクセスバス/JR八戸駅から15分司法センター経由根城バス停(博物館前下車)

▼本丸跡
本丸は、柵で囲まれ、本丸へは、園路を右に行き、木橋を渡って左方向へゆるやかに登って行くと東門があり、その先に料金所があります。カラーコーンの置かれている道は行き止まりです。

◇納屋
竪穴式の建物で、茅葺きの屋根が地面近くまで葺きおろされている。この中には、米、味噌、梅漬けなどが入れられたと考えられる。

▼木橋からみた本丸内堀(後方は馬渕川方向)

◇鍛冶工房
鎧や刀の部品などを作っていた工房。中に入ると作っていた状況が展示されている。

◇板蔵(いたくら)
当主やその家族が使う道具や衣類などが収められていた建物。

▼本丸平面図(城内説明板より)
本丸へは、堀跡に架かる木橋を渡り、左へと(東門)行きます。東門をくぐった先が料金所になっています。(木橋手前の中館跡の料金所は閉鎖。また、木橋下方の東門への道は、本丸を囲む柵までしか行けません)

▼旧八戸城東門を背にして、写真中央奥の本丸跡に建つ主殿を望む(東から西方向)。
平坦な歩きやすい園路が本丸まで続き、樹木周辺が東善寺館跡、その後方が中館跡。

 中世城郭としての根城跡は、昭和53年度から11年間に及ぶ発掘調査とその成果に基づく9年間の復原整備によって完成しました。調査では、掘立柱建物跡354棟、竪穴建物跡82棟をはじめ門、塀、柵跡などが多数発見されました。 根城は、大規模な建て替えだけで16回、合わせて17の時期にわかれます。復原整備は、本丸の建物跡が最も良好に残っている16期(安土桃山時代)を対象に行われました。本丸内には主殿を中心に馬屋、工房、鍛冶工房、板蔵、納屋などが復原されています。これらは石垣に囲まれ櫓や天守閣がそびえる城よりも古い時代の城郭を再現したものです(文は「史跡根城の広場」案内パンフレットより)

復原された門
(左上)東門。本丸に入る時の正式な門と考えられる。
(右上)北門
(左)西門

左側の建物は中館跡に復原された四阿(あずまや)。 堀底には、史跡公園として整備されているため花菖蒲が植えられています。 後方は、下町・馬渕川方向になります。

△御殿跡の平面表示

△主殿

◇中馬屋
来客用の馬を繋いでいた建物。

JR八戸駅

根城周辺図

◇広間〜当時の資料をもとに再現された正月十一日の儀式の様子。

◇詰之間

◇二之間

◇主殿内部

▼中館跡

「史跡根城の広場平面図」

●根城(ねじょう)は「史跡根城の広場」として整備され、旧八戸城東門から本丸まで続く園路に沿って、東善寺館〜中館〜本丸へとめぐります。見どころは巨大な空堀跡、中世城郭の特徴をよく伝える本丸に復原された主殿や工房、馬屋、納屋などの建物です。

▲八戸市博物館前に建つ南部師行像

■根城と南部氏

〜根城(全景)・根城郭配置図・根城復元予想図〜

◇常御殿(つねごでん)
この建物跡は、当主が寝起きし、領内を治めるための仕事をしていたところ。
重臣たちと協議したり、来客と接見するための広間や寝所、従臣の詰所などがあったと考えられる。

◇奥御殿
この建物跡は、当主の家族が住んでいたところで、先祖の霊も祭られていた。当主は先祖の拝礼や家族の様子をうかがうために、常御殿から通って来ました。

◇主殿◇
当主が来客と接見したり、さまざまな儀式をとり行うための建物と考えられます。


木橋 事故防止のための手摺が設置されている。 橋を渡って左に行くと東門、右の門は北門。

(左上)
中館跡

(右上)
中館跡の遺跡全体模型

(左)
本丸からみた中館跡

中館東側の堀跡(写真右・下) この堀は、V字形の空堀で、現在でも1メートルほど掘ると水が湧くことから、堀底を水が流れていたと考えられる。 堀の規模は、本丸や東善寺館と並び、根城のなかでは大きい方です。

通路跡
本丸に向かって、右方向(北)にのびる通路跡。
この通路は、堀を埋め戻した上に砂利などを敷いてつくられ、通路は中央部で広がり二手にわかれる。この分岐点から中館側(左手)は、掘立柱建物や溝などに壊されており、通路として使われなくなったことが判明。もう一方の通路は、下町方向にのびると考えられる。
通路の発見は、根城では初めての貴重な例。

城内からみた旧八戸城東門 門、手前の園路の両側が、上の堀跡になります。
堀は、地面を深く掘りこみ、敵の侵入を防ぐためにつくられたものです。この堀は、本丸や中館(なかだて)の堀と並ぶ大きな∨字形の空堀で、三番堀とともに城の東側を守る重要な施設。
東善寺館(とうぜんじだて)の堀切 旧八戸城東門をくぐつたすぐのところに残る、東善寺館の東側に位置する堀跡。
旧八戸城東門 八戸市有形文化財・平成5年6月指定 この門は、八戸城の東門で安政6年(1857)の大風のため倒れ、家臣の木幡氏の門として建て替えられた。 伝承によればもともと根城にあった門を八戸城に移したといわれている。

 根城・八戸市博物館の看板が立つ「史跡根城の広場」入口。手前の左右の道路は国道104号で、北へ入るとすぐにある八戸市博物館(茶色の建物)。
 博物館前には、南部師行像、根城史跡ボランティアガイドハウス、旧八戸城東門が建っています。駐車場は看板の立っている所にあります。

■復原された南部氏の居城「根城」

 根城は、建武元年(1334)に南部師行によって築城されたと伝えられます。南部氏は、甲斐国(現在の山梨県南部町・身延町)に拠点を置いた有力な鎌倉御家人であり、南北朝時代には北畠顕家に従い奥州における南朝方の中心的な存在として活躍し、その勢力は現在の秋田県比内・鹿角地方、岩手県閉伊・遠野地方まで及びました。
 
 南部師行は延元三年(1338)、北畠顕家と共に泉州石津(大阪府堺市)で討ち死にしますが、その後も根城は師行の子孫らによって守られ、南部氏の居城として数々の歴史や伝説の舞台となりました。
 
 秀吉の時代、根城南部氏は同族の盛岡南部氏の家臣格となり、やがて寛永四年(1627)、遠野へ領地替えになります。これにより、根城は城としての役割を終えました。この間約300年、ただの一度も落城することのなかった名城です
(文は「史跡根城の広場」案内パンフレットより)
「城内説明板より転載」 本丸跡の復原建造物と、後方は、馬渕川に架かる根城大橋。 写真下の道路は、国道104号。
「城跡説明板より転載」 根城は8つの郭よりなる。 国道104号より南側は宅地化されています。
「城内説明板より転載」 根城は南側の段丘が緩やかに馬渕川右岸に向かって下降する先端部、標高20メートルの所にあって、その地形を巧みに利用、郭をつくり、堀を掘り、土塁を築き、馬渕川を堀代わりとし防備を固めている。

根城への入口
後方の建物は、根城史跡ボランティアガイドハウス。ハウスの前方、入口看板の後方に旧八戸城東門が建っています。

三番堀址
上の写真、根城入口前の国道104号をはさんで向い側に位置する空堀と土塁の遺構。

{交通}
※バス/JR東北本線・東北新幹線「八戸」駅から南部バス「司法センター経由」で約15分「八戸市博物館前」下車、徒歩約5分で本丸跡
※八戸自動車道/八戸インターから5分




▼本丸南側の内堀

本丸を囲む内堀(空堀)と木橋 内堀の右側は中館、左側は本丸。
根城を歩く

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください