このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
毎年秋の菊人形がつくられる舞台として名高い二本松城
▼山頂の本丸に復元された石垣
箕輪門背後の山城域をめぐる天守台石垣と本丸の石垣
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▼<城址庭園>
推定復元された二本松城箕輪門(中央)・二階櫓(右)・多聞櫓(左)
別名 | 霞ヶ城(かすみがじょう) |
所在地 | 福島県二本松市郭内 |
地形種類 | 山城から平山城 |
築城年・築城者 | 嘉吉年間(1441〜44)、畠山満泰(はたけやまみつやす)。天正18年(1590)、蒲生郷成(がもうさとなり)。嘉永4年(1627)、加藤嘉明(かとうよしあき)。寛永20年(1643)、丹羽光重(にわみつしげ) |
文化財指定区分 | 国指定史跡(平成19年7月指定) |
復元・整備 | 箕輪門と付櫓が推定復元(昭和57年) 山頂の本丸石垣が復元整備(平成7年) |
天守 | 天守台のみ残る |
▲石垣の城が少ない東北地方では、本丸石垣と山麓(二の丸)の石垣は壮大である。
▲本丸下の野面積石垣。二本松城中最も古い石垣。
▲野面積石垣と上方は山頂の本丸。
▲箕輪門左側の石垣。
▲大手門(坂下門)石垣。切石積の石垣。市史跡。
▲傘マツ〜“八千代の松”といわれるアカマツの巨木。推定樹齢300年といわれる。
市指定天然記念物。
日影の井戸
千葉県印西市の「月影の井」、神奈川県鎌倉市の「星影の井」と並び「日本の三井」と称される井戸。井戸の深さは約16mあり、さらに井戸底の岩盤をえぐって北方に約14m達している。今でも豊富な湧水を溜めている。
智恵子抄詩碑
『あれが阿多多羅山、あのひかるのが阿武隈川』
高村光太郎が妻・智恵子を偲んで詠んだ「樹下の二人」の冒頭の句が刻まれている。
[交通ガイド]
●二本松城
JR東北本線二本松駅から徒歩20分
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【歴 史】
■室町時代中頃(1441〜44)に陸奥畠山氏の本拠として、畠山満泰が白旗ヶ峰(しろはたがみね)に築いた山城。標高345mの山頂に本城が築かれ、山下には居屋敷があって、9代約150年間畠山氏歴代の居城となった。天正14年(1586)、伊達政宗に攻められて落城し、畠山氏も滅亡。その後、蒲生氏が入り石垣を用いた城郭として改修され、寛永4年(1627)に入った加藤氏により現在の近世城郭の姿に大改修された。寛永20年(1643)に丹羽長重の三男光重が陸奥白河より入封。10万石余の大名として二本松城を立藩する。幕府から新規の城普請の許可を得て、10年をかけて城を修築し、三の丸御殿、箕輪門などを建造し、城下町を整備し、以後、丹羽氏の居城となる。
■戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟に加わり、慶応4年(1868)、新政府軍に攻められ落城し、すべて焼き払われてしまった。二本松少年隊が戦死した悲劇でも知られる。
■遺構として、山頂の本丸石垣、山麓の石垣が残る。昭和57年(1982)、箕輪門(みのわもん)と付櫓が推定復元、平成5〜7年に本丸石垣を修築復元。
▲霞ヶ池に浮かぶ人形。後方中央の建物は、市指定有形文化財の「洗心亭」。
▲箕輪門城外側と城内側(写真右)
二本松城の南山麓には御殿などの居館があり、その正門となるのが箕輪門であった。
▼石垣
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