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国史跡・小早川氏城跡
指定年月日 昭和32年(1957年)12月11日
新高山(にいたかやま)城跡
【所在地】広島県三原市本郷町本郷・船木
 小早川氏の祖、土肥実平・遠平父子は、源頼朝の平氏追討に当って終始勲功をたて、はじめ備前、備中、備後の三国の守護の地位を与えられたが、安芸国沼田(ぬた)荘(沼田川流域一帯、蓮華王院領)の地頭職を得ると一族あげて相模国から西遷して来た。
 鎌倉・室町時代を通じて沼田小早川氏が本拠地とした山城は、沼田川対岸の高山城であったが、沼田小早川家を継いだ隆景(たかかげ)は、これまで高山城の副塁であった新高山城の大改修を行い、天文21年(1552)にここに本拠を移した。
 以来慶長元年(1596)に三原城に移るまでの45年間、この新高山城が小早川氏の本拠となった。

 この城郭は、標高197.6mの新高山城の天嶮を利用した山城で東西400m、南北500mの全山を城塞としている。
 山頂尾根を削平した本丸、二の丸、三の丸など各種の郭は60余に及ぶ広大なもので、城主や家臣の居館を山上にあげた中世山城から近世の城郭への過渡期を示す城郭である。
新高山城跡周辺マップ
は本郷駅より大手道入口までの徒歩ルート(1.8km 約25分)。本郷橋を渡り、本郷橋西詰を右折し北に向かうと大手道入口の看板が設置(は新高山城跡大手道入口。北側には駐車場有)。
 大手道入口から少し登ると城跡説明板があり、そこに登山用の杖と縄張図入りのパンフレットが置いています。沼田川を挟んで新高山城の対岸には高山城が向き合って位置する。
 右距離表は現地説明板より。訪城日〜2018年3月。
【縄張図】
城域は山頂の内郭部と山腹の外郭部に分かれる。
【内郭部】
 本丸は、山頂尾根を削平した四段からなり、東西125mに及ぶ広大な郭で、西側と北側の斜面は巨石による石垣で補強している。東端の最高部は標高197.6mで巨石が露出しているが、この上に櫓をあげていたものと思われ、近世城郭の天守台にあたる郭である。本丸の広い郭には、居館の跡と思われる礎石が一部露出しており、また、西側の中の丸からの登り口にあたる本丸西南隅には内枡形の跡が残っている。

 本丸の北方に四段の郭からなる東の丸、井戸郭(釣井の段)、五段の郭からなる中の丸、西方にも四段の中の丸の各郭が配置され、これらが二の丸の縄張りである。中の丸の郭には随所に土塁を築き、曲輪を設けて防備を固めている。また、北方の中の丸の広い郭には礎石の配置が一部みられ、規模の大きな建物があったことが知られる。 

 中の丸に続いて西方に配置された四段が西の丸で、これからさらに北西にのびる北の丸の五郭が連なっている。これらが三の丸の縄張りである。西の丸の東端の郭は石弓場と呼ばれるが、それ自体が二の丸を守る箱薬研の堀切の役割を果たしている。また、北の丸の中心的な郭には石積みの方形基壇が残っており、社寺に類する建物があったと思われる。
【外郭部】
 外郭は斜面の中腹から張り出した二つの尾根を利用し、大手側を固める意図をもって巧妙に配置され、匡真寺跡・鐘の段・番所跡・紫竹の丸・シンゾウス郭・大手道などがある。

 これらの郭はすべて地山を削平し、又は、切削り、あるいは堀切り、必要な箇所は石積で補強し、随所に帯曲輪や腰曲輪で結ばれ、また、石垣、空堀、竪堀を設けている。とくに近世城郭に関連する枡形城門の採用が各所にみられる。

番所跡
 軽石の段、中の段、下の段の三郭からなり、大手道(写真左下の道)を警護する番所が設けられていた所。


番所跡に残る土塁

匡真寺(きょうしんじ)
 小早川氏の菩提寺跡。隆景は、天正5年(1577)亡父毛利元就の七回忌、亡母妙玖尼の三十三回忌に際して、南側中腹の郭に匡真寺を建立し、法要を行った。寺跡からは多量の瓦が出土している。

門跡(縄張図、現在地●「中の丸」の門跡)
 中の丸(二の丸)跡へと続く石段上は門跡とされる。門跡を過ぎて右方向に本丸、詰の丸、釣井の段、東の丸、ライゲンガ丸のいわゆる二の丸が展開する。
 また、石段を上がらずに左方向に進むと、石弓の段、西の丸、北の丸へと至る。


本丸西側の中の丸跡から本丸郭を望む
 大手道突き当りの櫓台状の所が本丸郭。ここに写真右の石垣の一部が残存する。ここを左に行くと、本丸北側の中の丸、釣井の段(井戸郭)、本丸大手門跡へと至る。右に行くと、本丸西南隅の虎口に至る。


本丸下に残る石垣
 三原城修築の際、この城の大石を残らず三原に運んだといわれているにもかかわらず、まだ各所に石垣の一部が残存している。

中の丸跡
 本丸北側に位置する中の丸への虎口と土塁か?。右側の道を奥に進むと釣井の段(井戸郭)、本丸大手門跡へと至る。

釣井の段(井戸郭)に向かう道沿いの石垣
 ここを左下に下ったすぐの所が釣井の段(井戸郭)となる。後方には本丸大手門跡が残る。

 

釣井の段(井戸郭)の大井戸
 釣井の段には、円形石積井戸が6ヵ所あり、今なお、清水を湛えたものもあり、城主をはじめ多くの家臣団の城内生活を物語るものである。
 上下二段からなるこの井戸郭は、東西南北ともに50m余という城内最大の郭である。


本丸に残る大手門跡
 釣井の段側から本丸跡へと登りきったところには門があったとされる。この場所は、外枡形の大手門跡と推定される。ここを少し登った所が左下写真。


大手門跡
 左折れの外枡形の形式をとる。


本丸跡に残る礎石

本丸下に残る石垣の跡
 
右側から登って行くと、右写真の内枡形に至る。

本丸に残る枡形城門と土塁
 西側の中の丸からの登り口にあたる本丸西南部には内枡形の跡が残る。


詰の丸跡
 東端の最高部である詰の丸には、巨石が露出しているが、この上に櫓をあげていたものと思われ、近世城郭の天守台にあたる郭である。


詰の丸跡にある石造物
 

石弓の段(石弓場)から西の丸郭群を望む
 手前が石弓の段となり、曲輪跡にしか見えませんが説明板には「それ自体が二の丸を守る箱薬研の堀切の役割を果たしている」。
 また、石弓の段東端(二の丸との境目)には右写真のような堀切跡と思われる部分があります。

堀切跡?
 左の崖が二の丸、右側が石弓の段となり、説明板に書いてある箱薬研の堀切跡のように見えます。

<追記>西の丸西側に残る畝状竪堀群や、北の丸については、残念ですがどこにあるか分かりませんでした。

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