このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
世界文化遺産登録
所在地 | 京都市中京区二条通堀川西入二条城町 |
地形種類 | 平城 |
築城年代 | 慶長6年(1601)〜慶長8年(1603)、 寛永元年(1624)〜寛永3年(1626) |
築城者 | 徳川家康、 徳川家光 |
文化財指定区分 | 国指定史跡。国指定名勝。重要文化財22棟(建造物)954面(美術工芸)。国宝6棟(二の丸御殿遠侍および車寄・式台・大広間・蘇鉄の間・黒書院・白書院) |
天守の現況 | 天守台のみ残る |
二条城について | ■二条城は、慶長8年(1603)徳川初代将軍家康が、京都御所の守護と将軍上洛のときの宿泊所として造営し、3代将軍家光により、伏見城の遺構を移すなどして、5重天守や本丸御殿などが造られ寛永3年(1626)完成、現在の規模となった。 ■したがって、豊臣秀吉の残した文禄年間の遺構と家康が建てた慶長年間の建築と家光がつくらせた絵画・彫刻などが総合されて、いわゆる、桃山時代様式の全貌をこの城に見ることができる。 ■慶応3年(1867)15代将軍慶喜の大政奉還により、二条城は、朝廷のものとなり、ついで明治17年(1884)離宮となり、昭和14年(1939)京都市に下賜され現在に至る。 |
▲本丸御殿 —重要文化財—
寛永3年(1626)、3代将軍徳川家光が天皇の行幸を仰ぐために造営された御殿。天明8年(1788)の大火で類焼するが、のち明治26年(1893)、京都御所内の旧桂宮御殿が移築され、4棟からなる宮家の遺構が完全な形で保存。
▲二の丸御殿 —国宝—
桃山時代武家風書院造りの代表的なもので、内部には桃山時代の豪壮な絵画が描かれている。御車寄につづいて遠侍(とおざむらい)、式台(しきだい)、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が東南から西北にかけ雁行に連なる。
■幕末{慶応3年(1867)10月}に15代将軍・徳川慶喜がここで(二の丸御殿大広間)大政奉還を行ったエポック・メーキングな場所。
平成6年12月15日、「古都京都の文化財」のひとつとして世界文化遺産に登録された。
▲二の丸庭園 —国指定名勝—
古来からの造庭術にしたがい、池の中央に蓬莱島、その左右に鶴亀の島を配した池泉回遊式庭園で、小堀遠州の作と伝えられる。
▲天守台と内堀
天守は、寛永1年(1624)、伏見城から移され、大規模な改修を施されたが、寛延3年(1750)の落雷で焼失。いまは台座の石垣だけが残る。
二条城周辺図
二条城地図(現地案内リーフレットより転載)
▼東大手門 番所 築地塀 二の丸御殿唐門
▼東南隅櫓 —重要文化財—
外堀沿いに建つ巽(東南)の2層隅櫓。右奥の東大手門につづく。
世界遺産とは?
1972年の第17回ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)総会で採択された国際条約「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約(通称世界遺産条約)」に基づいて登録された世界共通の財産のこと。
建築物や遺跡などの「文化遺産」、地形や生物、景観などを有する地域の「自然遺産」、その両方を兼ね備えた「複合遺産」に分けられる。
二の丸御殿
唐門
築地塀
番所
東大手門
スライドショー(手動)
■二条城は、関ヶ原合戦後、徳川家康が上洛時の宿舎として築城。1601年から普請を始め、その後、二代秀忠、三代家光の時代にわたって天守をはじめ、本丸御殿、二の丸御殿などがつくられたが、落雷と大火でほぼすべてを焼失。大阪冬と夏の陣では、徳川方の作戦本部となり、家康はここから出陣した。
「交通ガイド」
地下鉄東西線二条城前駅から徒歩1分
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