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「千人殺し」とよばれた石垣が残る日向の堅城
【沿 革】 県城(あがたじょう)・亀井城(かめいじょう)ともよばれていた。本格的な築城は、豊臣秀吉による九州平定において軍功のあった高橋元種(たかはし もとたね)が県城を改築して延岡城とし、1603年((慶長8年)に城を完成させた。城主は高橋氏ののち、有馬・三浦・牧野・内藤氏と替わるが、有馬氏の時代に、城名を延岡城と改め、城と城下町はさらに拡大整備された。 現在城跡は城山公園となって、「千人殺し」とよばれた石垣が残されている。この石垣には仕掛けがあって、ひとつの石を外すと石垣全部が崩れて、千人を殺すことができるという伝説がある。この石垣の他に、天守台跡・井戸跡・曲輪跡・復元城門などの遺構が残る。形式は梯郭式平山城で、本丸を中心にして、段下がりに二の丸・三の丸を張り出すように縄張されている。 |
「千人殺し」とよばれる二の丸高石垣
高さ22メートル。みごとな反りと勾配。
▼天守台跡地にある鐘付堂
鐘は、明治11年に今山八幡宮の鐘を、城山に移し鐘楼を建てた。現在の鐘は二代目となる。
▼北大手門
発掘調査や絵図等をもとに平成5年に復元。城の玄関である「大手」を守る登城門。
写真左〜城外側。門をくぐって石段を上がったところが二の丸跡。「千人殺し」とよばれる高石垣がそびえる。
写真右〜城内側。
▼頂上の天守台跡地
▼天守台虎口と石垣
▼本丸跡地
▼三階櫓跡地と石垣
▼本丸へと至る道
▼本丸二階櫓門跡と石垣(写真左・右)
【所在地 宮崎県延岡市】
▼延岡城から望む延岡市街
▼頂上の天守台跡地(標高54m)
■二の丸高石垣は、下の部分の石垣をはずすと石垣が崩れ落ち、千人は殺すといわれて「千人殺し」の名が付いた。
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