このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

能島城
のしまじょう


国指定史跡・日本遺産構成文化財

 能島城は、能島村上氏の根拠地であった。村上氏は、南北朝から戦国時代にかけて瀬戸内海で水軍として活躍した一族である。俗に三島村上氏と呼ばれる。能島・来島・因島の三家からなり、互いに強い同族意識を持っていた。

▲能島城全景
【所在地】愛媛県今治市宮窪町能島 
【形 式】海城
【遺 構】桟橋跡ピット・曲輪跡等
【創築年・創築者】南北朝時代の元弘年間(1331〜34)に、村上義弘が築いたというのが通説
※写真は、カレイ山展望公園より撮影。

 能島村上氏は、村上武吉の時代、厳島合戦で毛利軍の勝利に貢献するなど活躍し、武吉は「日本一の海賊」といわれた。
 しかし、1585年(天正13)の秀吉の四国攻めに従わず、小早川隆景の攻撃を受けた。武吉は全軍をあげ反撃。攻めあぐねた隆景は、強風の日に麦藁をいっぱい積んだ何百という小舟に火をつけ、潮流に乗せて流した。火は建物に燃え移り、島全体が火に包まれ落城したという。

 写真は村上武吉公像

▲能島城は、大島と鵜島(うしま)の間の能島に築かれた水軍城
 能島は周囲約850mの無人島。南隣りにある周囲約250mの鯛崎島を含め二島全体を城郭化した海城。かっては橋で結ばれていた鯛崎島にも曲輪跡が残る。


▲能島は島全体が要塞化され、本丸・二の丸・三の丸・出丸などの曲輪が残る
 島の中心の山頂を削平して本丸となる曲輪を設け、その下の段に第ニの曲輪がとりつき、さらに海上にむかって三方に延びる岬上の南端に出丸、西側に三の丸、東端に矢櫃(やびつ)と呼ばれる曲輪を配していた。さらに、西下段の削平地には、船着場兼倉庫などの施設があったと考えられる。北下段は波が穏やかな砂浜で、船溜りと称されている。
 海岸の岩礁上には無数のピットがうがたれており、桟橋用の柱穴跡と考えられている。周辺海域は潮流が速く複雑で自然の要害となっており、天然の外堀としての役割を果たしていた。

◆潮流体験船で能島城跡周辺を巡る◆

(潮流体験だけで能島城跡には上陸しません)


船着場兼倉庫


船着場と右側は出丸跡側


船溜まり
 能島で最も波が穏やかな砂浜で、船溜まりと称されている場所。満潮の為、砂浜は海水で覆われている。


船溜まり


能島城の一部であった鯛崎島

◆村上水軍博物館に屋外展示の小早船と繋船石◆

海上から見た村上水軍博物館。訪問時、残念ですが休館日(月)でした。

小早船(武吉丸)
 小早船とは、村上水軍の起動力として活躍した小型の船をいう。
 この船は、日本一の水軍レース大会を目指し、平成2年(1990年)に、小佐田哲男先生(東京大学名誉教授)の監修の下、宮窪町が復元を行った第1号船である。
 全長8.4m、幅2mで、長さ6.6mの五丁櫂を搭載している(説明板より)。


繋船石(けいせんせき)
 宮窪町戸代沖、古波止より発見され、昭和58年(1983年)に、村上文彦、村上恒文両氏によって引き揚げられた。
 船を繋ぐ木柱を立てるためと推測される直径25〜30㎝の円形孔が穿たれた花崗岩の台座である(説明板より)。



能島城跡周辺図(上・左)

 次回は、能島上陸&潮流クルーズを利用して能島城跡に上陸したいと思っています。
 

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