このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

<JR北陸本線「河毛駅」前の長政とお市の像> 
 小谷城は初代亮政が大永年間(1521~1528)に築城したとされる。落城は三代長政の天正元年8月28日(1573)。長政は織田信長の妹お市を娶るも、信長に攻められ、久政・長政父子は自刃。小谷城攻略の武功第一として、羽柴秀吉が入城。秀吉は浅井氏遺領のうち12万石相当と小谷城を拝領し初めての城持大名となった。その後約2年半在城し、天正4年春頃(1576)今浜を長浜と改め、築城を始めた長浜城に石壘、城楼、町家、寺院などを移した。ここに小谷城は廃城となる。

三段に成っている中丸跡
 織田軍に攻められた時、重臣の浅井七朗、三田村左衛門尉、大野木茂俊らが守っていたが、秀吉軍に寝返って、秀吉軍を京極丸へと導き入れるために人払いをした所。このことが小谷城落城の引き金となった。


京極丸跡
 京極高清・高延父子の住まい。中丸の一段上がった場所にある曲輪。中丸に入った秀吉により最初に攻撃された所。

小丸跡
 二代目城主・浅井久政の隠居後の住まい。清水谷から京極丸を攻めた秀吉は小丸を攻撃。久政は最後を覚悟し、ここで自刃(享年49歳)した。


赤尾屋敷跡
 背後に秀吉軍が本丸まで迫ってきたので引き返せず、家臣の赤尾美作屋敷に逃げ込み長政が自刃(享年29歳)した所。
          
 小谷山の尾根上に、本丸・中丸・京極丸・小丸・山上丸などの曲輪が縦一列につながっているのが特徴で、連郭式の縄張となっている。現在の小谷城には、建造物は残らず、各曲輪跡、山王丸や本丸の石垣、土塁、空堀などが残る
▲小谷城跡の復元(安土城考古博物館展示)~曲輪跡名を追記し掲載
 
小谷城址遠望(国道365号線側より)
 
出丸下の登城口(伊部口駐車場・無料)
登城ルートは、大手道、搦手道などがありますが、登城口(伊部口駐車場)から大手道→出丸→間柄峠→番所跡→本丸跡→中丸→小丸→山上丸へと登って行きました。なお、番所付近まで車で行けます。
【小谷城跡】

小谷城本丸に残る石垣
 戦国時代、「近江を制するものは天下を制す」といわれたほど、近江は天下を左右する重要な位置にあり、数多くの戦乱の場となりました。このため多くの城郭が築城され「近江の城郭を語らずして中世は語れず」と言われるほど、近江には中世の城郭が数多く見られます。その中でも小谷城は、亮政(すけまさ)・久政(ひさまさ)・長政(ながまさ)の三代にわたって、小谷山全域に築かれたわが国でも屈指の規模をもつ中世城郭で、日本五大山城の一つに数えられています。

五大山城~越後の春日山城(上杉謙信の居城)・能登の七尾城(畠山氏)・小谷城・近江の観音寺城(六角氏)・出雲の富田城(尼子氏)}

 小谷城(おだにじょう)は、織田信長の激しい城攻めにより落城しましたが、その後、城跡は、何ら手を加えられることなく長く埋もれたまま、当時の面影を今に残し、私たちに伝えています。浅井家は、三代にして50年あまりで滅んでしまいましたが、長政とお市の方(織田信長の妹)との間に生まれた三人の姫は、成人して、長女の茶々は豊臣秀吉の側室<淀君>として、次女の初子(お初)は大津城主京極高次に嫁ぎ、三女の達子(お江)は徳川二代将軍秀忠の夫人となり、家光(三代将軍)・忠長・千姫・東福門院(後水尾天皇中宮)等を生み、何れも日本の歴史の一こまをかざるとともに、後世に名を遺しました。
(城跡説明板を参照)

浅井氏三代
 亮政・久政・長政の居城

小谷城
国指定史跡
 典型的な中世山城

【所在地】滋賀県東浅井郡湖北町郡上・伊部ほか
   
▼「山王丸」下の野づら積み大石垣

■小谷城跡探訪■

大手道(追手道)

 大手道から山王丸まで行き、山王丸から再び同じコースを引き返しました。搦手道は未訪問です
出丸
 城の主要部から離れた所にあり、小谷城最前線の基地。

 大手口付近・清水谷・北国脇往還が見渡せ、外部からの侵入を監視していた。
間柄峠
 大永5年(1525)7月、江南の六角定頼が、小谷城へ来攻した際、浅井亮政を助けるため越前より朝倉金吾宗滴と先鋒真柄備中守が来援した。

 越前軍が布陣した地を、それぞれ金吾丸・真柄峠と称するが、地元では古くから「間柄峠」として伝わる。
金吾丸
 後方の高所に金吾丸がある。

 大永5年(1525)、六角定頼(ろっかくさだより)の来攻に際し、越前より朝倉教景が来援し造作した陣所。
番所跡
 金吾丸から歩いてすぐ、平坦な場所にある。

 大手道の最終地点に位置し、遠方からは見えず、間道もここに集まる要所に位置する登城者の検問所。
御茶屋跡
 城内の曲輪は縦一列につながっており、その最先端にあるのが御茶屋。軍事的施設であったと考えられている。
御馬屋(おうまや)跡の馬洗池(うまあらいいけ)

 御馬屋は、その名の通りそこに馬屋があったものか、城の遺構として有名な馬出しに由来しているものか意見が分かれています。

 馬洗池も、字の通り、そこで馬を洗ったものとみるよりは、城内の生活用水の溜池と考えられる。年中水が涸れることが無く菖蒲が茂っていた。一説に浅井町の天吉寺山の元池からサイホン方式で取り入れたとも言われている。
首据石(くびすえいし)
 馬洗池から少し登ったところにある。天文2年(1533)初代亮政は六角氏との合戦の際家臣今井左衛門尉秀信が敵方に内通していたことを知り、見せしめのため秀信の首をここにさらしたことで有名な石。
浅井長政公自刃之地
 長政が自刃した赤尾屋敷跡に立つ。浅尾屋敷跡は、本丸の東側一段低くなった場所。

 天正元年(1573)、信長の投降のよびかけを拒んだ長政は、妻お市を信長の元へ送りとどけ、茶々ら3姉妹を浅井家菩提寺へかくまわせたあと、本丸下の赤尾屋敷へ籠もり、命を絶った。
桜馬場
 曲輪の一つで、黒金門前の平坦地。ここには浅井氏供養塔が立つ。
 
桜馬場と浅井氏供養塔
桜馬場の浅井氏供養塔
 右側には、黒金門跡が残る。
黒金門(くろがねもん)
 左右に石垣を築き中央に数段の石階を設けている。城の主要部の表門、ここを通って大広間・本丸に入る。
大広間
 一名千畳敷と呼ばれ、城内で一番広い平坦部。当時の柱間(6尺3寸)の間隔で礎石が並び、重要な建物があった所と推測される。後方の一段高くなっている所が鐘ヶ丸と呼ばれる本丸跡。何層かの櫓があったとされる。
「鐘ヶ丸(かねがまる)」ともよばれた本丸跡
 古図には、「天守共、鐘丸共」と書かれているそうです。南面には半ば崩れかかっている石垣が残っている。
刀洗池(かたなあらいいけ)
 鏡池ともいわれ、本丸から北へ100mほどの所にある城中の井戸(飲料水)の一つ。この付近一帯の平坦部が中丸跡。

 中丸をさらに一段あがったところに、京極丸があり、大広間につぐ広さをもつ。その北にあるのが小丸跡。そして、さらに登ると山王丸がある。
山王丸(さんのうまる)
 小谷城主要部の最高所(標高395m)に位置する詰ノ丸。山王丸は、日吉(ひえ)山王を祭ったところからこの名がある。東南及び北の三面には、城中最大の往時の石垣が遺存している。

※以上、各説明文は「城跡説明板」「現地案内パンフレット」を引用して作成。
 
城跡から一望する湖北の町と琵琶湖。
琵琶湖に浮かぶ竹生島(ちくぶしま)が見下ろせる。
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JR北陸本線「河毛」駅前

{小谷城周辺図(現地案内パンフレット引用)}
訪問時、河毛駅レンタサイクルを利用し、10分位で登城口に着きます。徒歩で30分位。

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