このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

国重文(建造物)
大橋家住宅

大橋家住宅<主屋>
 大橋家は倉敷町屋の典型を示す代表的な建物で、主屋や長屋門・米蔵・内蔵の4棟が、昭和53年(1978)国の重要文化財の指定を受けている。主屋は入母屋造(いりもやづくり)で本瓦葺き、屋根裏に部屋と厨子(屋根裏・天井裏の物置場)を設けた重層の建物が主体となり、東には平屋建ての座敷がある。用材の多くは地方産の松を使い、化粧材はケヤキ、杉などを用いて鉋(かんな)仕上げにして、簡素ではあるが行き届いた建物となっている。

【大橋家の歴史】
 大橋家の先祖は豊臣氏に仕えた武士でした。1615年大阪落城の後、京都五条大橋辺りに隠れ住んだようで、幕府の追及を逃れるため大橋を称するようになったと言われています。このころから数えると400年余りの歴史がある家柄となります。

 江戸時代の初め(元和〜寛永)に備中中島村(現倉敷市中島)に移り住みその後の宝永2年(1705)にこの倉敷に住むようになりました。代々中島屋平右衛門と称し、水田・塩田を開発して大地主となり、かたわら金融業を営み大きな財をなしていきました。

 天保の飢饉(概ね1833〜1836 江戸四大飢饉の一つ)には金千両を献じて名字を名乗る事を許され、(当時農民・町民は名字を名乗ることが出来ませんでした)加えて讃岐(現香川県)の直島に塩田十二町七反余りを開いてその功で、帯刀(刀を腰にさすこと)をも許され、江戸時代の末期、文久元年(1861)には倉敷村の庄屋をつとめました。

※金千両=当時の物価で換算すれば約1億円
※十二町七反=38、100坪=126,000㎡(東京ドーム3個弱)
※江戸四大飢饉=江戸時代に起きた長期にわたる冷害・干ばつ・水害などの悪天候や害虫の異常発生・火山噴火などでの凶作の連続による飢饉の内、最も被害の甚大であったものをいう。寛永・享保・天明・天保の四つとされるが寛永年間のものを除いて3大飢饉とされることもある
※庄屋=村落の長=納税その他の事務を統轄

長屋門
 街道に面して長屋を建て、その内側に前庭を隔てた主屋を構えた建物の配置が特色。主要な出入口がその長屋を貫くように作られているため「長屋門」と呼ばれ、通常の町屋では許されない事であり、それらが行われているということは、当時倉敷代官所の許可があったわけで、その格の高さが偲ばれます。


長屋門(内側)
 主屋側から見た長屋門と前庭。

米蔵
【建物の歴史】
 「普請覚(建築・土木工事の覚書)」のほか、棟札・墨書等の資料から寛政8年(1796)より寛政11年(1799)にかけて主要部分が建築され、その後、文化4年(1807)、嘉永4年(1851)の2度にわたって大改造が行われたことが判明しています。

 平成3年〜7年にかけて、3年4ヶ月を要した建物の解体を含む保存修理工事が行われ、最も屋敷構えの整った嘉永4年(1851)の姿に復元され、当時の格式の高さと繁栄ぶりを伺い知る輝きを取り戻しました。

内蔵入口


内蔵

重要文化財指定書・指定書附書


町屋の工夫


倉敷窓
 
主屋2階正面に採光と換気のため、4カ所設けている窓で5本の格子を入れて内側に引き戸が有る。この地域では、2階の正面に窓が開かれていることを「倉敷窓」としていた。角柄(つのがら)窓形式の枠を組み、3本または5本の木地の竪子(たてご)が入る。


倉敷格子
 主屋1階正面のひら格子や長屋門の出格子などに用いられており上下に通る親竪子の間に、細く短い3本の桟が入っている。上部は採光と換気に優れ下部は外からは見え難く中からは見え易いという特徴がある。

平目地瓦張・なまこ壁
 平目地(ひらめじ)瓦張=土蔵などに耐火と耐久性を出すため、壁の表面を平らな瓦でタイル張りの様にしたもの。
なまこ壁=平目地瓦張に更に水の侵入を防ぐため、目地に漆喰を盛り上げたもので、その盛り上がり方が海鼠(なまこ)に似ているところからなまこ壁と言われる様になった。


下見板張
 倉敷格子の下側の板張りのことで、腰壁仕上げの一種で板を横に羽重ねにし押縁でおさえている部分。

格式の高い和空間


「どま」


「みせのま」と「なかのま」

「しんざしき」に掲げられた三島毅書「六々亭由来」額


「おおざしき(上の間)」と「床の間」

「なかにわ」


「だいどころ」

大橋家住宅周辺図
「所在地」倉敷市阿知3ー21ー31
「交通」JR倉敷駅から徒歩10分

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