このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

■大多府島
 日生諸島最南端に位置する周囲5kmの大多府島の北岸は天然の良港をなし、島の南側は浸食作用による変化に満ちた海岸線が美しい。海食洞のひとつに「勘三郎の洞窟」があり、そのむかし勘三郎という男が洞窟でニセ金を作っていたと伝えられている。

 大多府港は元禄11年(1698)に開かれた古い港で、当時の防波堤(国登録有形文化財の元禄防波堤)が今も残るほか、灯台にあたる「燈籠堂」も再建され、また、海岸沿いには島を一巡する自然研究路が整備されており、赤松林の中を通る起伏に富んだコースはハイキングに最適。海水浴場・キャンプ場もある。

 開港と同時に在番所、加子番所を置いて管理にあたり、幕府の用船、諸侯の船舶に給水したり海難救助の仕事にあたり、燈籠堂を設けて航海の便に備えるなど港の施設を整備した。

 元禄12年に2棟、同14年に4棟の長屋を建築して島への移住を奨励し宝永4年(1707)頃から定住が始まった。
開港後120年たった文化14年(1817)には26軒の集落となっていた。その後、天保年間には家数は33軒あり元治元年(1864)には人口444人にもなった。

 明治22年(1889)町村制施行により日生と合併した。
現在では戸数70戸、人口195名で漁業・海運業が主要産業となっている。
(文は加子番所内の説明板より)

 元は大漂(おおとう)といわれていた。日生本土から約6Km。
日生諸島のうち最も沖合にあり、瀬戸内海国立公園に属している。南海岸は風波の海蝕により奇岩絶壁を成し、諸島随一の景勝を誇っている。周囲は約5km、面積は0,4K㎡。
 
 元禄10年(1697)9月、薩摩の国守、島津京信が参勤交代のため航海中、にわかに暴風にあいこの島に避難して無事であった。島津候は「この島を譲ってほしい」と備前藩主、池田綱政に申し入れた。池田藩では、領地内にこのような避難港がある事をはじめて知り、津田永忠に命じ元禄11年(1698)に防波堤を築造して開港した。今から約300年前である。
(左下に続く)

左=南海岸の奇岩
下=元禄防波堤

 大多府の在番所に所属し、船を漕いだりその他雑役をする加子(水夫)の番所である。加子の多くは農民で、5人が1か月交代で番所に詰め、幕府の用船などに飲料水を供給したり、諸侯の船が風待ちのために入港した時には、在番役人が港内にいる船を引き連れてご機嫌伺いに行くなどのために、この番所が置かれたといわれる。在番役の武士が加子たちを支配していた。元禄11年(1698)開港以来、在番所と共に置かれ明治元年まであった。


大漂(大多府)在番所

 岡山藩が船舶の検閲のために設けた役所で、大漂、日生、難田、寒河、福浦、久々井、鹿久居島等を支配するとともに、幕府の用船、諸侯の船をはじめ、往来する回船の検査、飲料水、薪炭の供給や海難救助の役割をしていた。大漂に入る船は、必ず役人(在番役といい、はじめは2人ずつ駐在したが、寛保元年(1741)から1人詰めとなる。)の検閲を受けることになっていた。

 もし、これにそむく船があれば在番役は、ただちに番船をだし、追いかけて違反船を捕らえた。在番所は、近辺では、下津井、牛窓、片上にも置かれていた。大漂の在番所は、元禄11年(1698)6月に開所以来、明治元年(1868)9月に廃止されるまで約170年間続いた。
(写真は海港300周年記念碑、後方の建物は休憩所・資料館として再建の加子番所)

古くから開けた史跡と伝説の島「大多府島」周辺図

勘三郎洞窟〜南岸は波浪荒く、海水による侵蝕も著しく至る所に奇岩奇石、断崖絶壁が見られる。中でも「勘三郎の洞窟」は著名で海蝕洞として県下では代表的なものである。この洞窟の奥行は80mで、入口は巾3m高さは20mで、狭いけれども天井の高い洞窟であった。

燈籠堂〜正徳4年(1714)大多府沖通行の船の道標として作られ、現在のものは昭和61年3月に再建された。

元禄防波堤〜備前藩郡代津田永忠の総指揮により、1年足らずで港湾施設を整備、開港した。

元禄防波堤〜石積みの防波堤は現在も当時の威容を留め、「元禄波止場」と呼ばれ平成10年1月、文化庁の有形文化財として「文化財登録原簿」に登録された。

▲大多府漁港東から西を望む〜「元禄波止の灯籠」後方は元禄防波堤[国登録有形文化財]

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大多府島の見どころ

●大多府島の歴史

●加子番所

(左上)六角大井戸(昭和55年8月12日 日生町指定文化財指定)
寸法〜直径2m 深さ6m
元禄11年(1698)大多府港の開港と同時に作られたと伝えられる大多府唯一の井戸である。この井戸は開港以来水道開設まで、最盛時島民1000人と16ヘクタールの耕地をまもり伝えてきた250年の歴史をもっている。井戸は、当時の作事奉行津田永忠のもとに近隣の名主を動員して構築された。

(右上)夫婦岩
伊勢の二見ヶ浦の夫婦岩に似ていることから、日生の夫婦岩と言われている。侵蝕と風化作用による自然の造形美。

(左)元禄防波堤から望むカキ棚と日生諸島

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