このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

▼西・東中仕切跡
城郭の中心部とされる本丸、二の丸、三の丸は、東西の中仕切によって区切られている。中仕切は、台地上のもっとも狭い地点に設けられた

名曲「荒城の月」で知られた城

西中仕切の鐘櫓跡
左側には、三の丸の高石垣がそびえる。

下原門跡(岡城の搦手門) 中川氏が入城した文禄3年(1594)までは、十川が城下町で、この門が正門であった。その後加藤清正公の指示により正門(大手門)を西側の現在地に移したと言われている。

※岡城は山城的殿舎(御廟)、平山城的殿舎(本丸・二の丸・三の丸)、平城的殿舎(西の丸)で構成され、これらが一体となっていることは近世城郭史上特異な城である。

岡城の築城
岡城は、中世には志賀氏の居城であったが、文禄3年(1594)中川氏の入部によって岡藩の城となった。現在残されている城郭は中川氏築城のものである。明治に至るまで岡藩を統治した中川氏によって築城された岡城は、本丸、二の丸、三の丸、西の丸、廟所などの主な曲輪からなる。
その変遷は、慶長元年(1596)に本丸、二の丸、三の丸を中心とした曲輪と大手口、近戸口、下原口といった登城口や搦手が完成している。西の丸は、寛文4年(1664)に完成している。廟所は、家老屋敷、先祖代々位牌所などを経て、天明4年(1784)に完成している。城郭は、ほぼ東西に延びる台地
上に展開する山城。

本丸を囲む石垣
本丸は、天守にあたる三重櫓や御金倉のほか、藩主の居住を中心とした殿舎で構成されていた。

(左)二の丸跡
滝廉太郎像の建つ二の丸は、数奇屋、月見櫓などがあったことから遊興的な曲輪であった。

(下)
二の丸跡の石垣

(左)三の丸跡
三の丸は、使者の間、小姓の詰所などと三十畳の広間の存在から、藩主の執務が中心的に行われた曲輪であったと考えられる。

(下)三の丸の高石垣
右手は、西中仕切跡。

廟所跡
廟所は、藩主の先祖をまつるなどの施設。

西の丸御殿跡から家老屋敷跡をみる
城の西北に配置された曲輪のうちのひとつ。重臣の中川覚左衛門の屋敷があった。

岡城への登城
城中への出入には、きびしい管理体制がしかれていた。それは、特に、各門ごとで行われた。門は、通常、明六ツ(午前六時)に開き、暮六ツ(午後六時)に閉じていた。閉門以後の出入は禁止されていたが、特別な事情の時だけ、藩の重職を担うものに限り通行が認められていた。
城内の主な門には、大手門、近戸門、下原門、太鼓櫓門などがあったが、これらの門には、それぞれ門番として役職の侍番が置かれ、出入の監視が行われた。

(左・下)大手門跡
岡城の大手門は、文禄3年(1594)中川氏入部後、大手・近戸・下原の三口切り開かれた。

(左)大手口から石段を登って行くと、石垣上にそびえる。石段の崖側には、カマボコ型石塁で縁取られた石塀が続く。

(下)西の丸からみる大手門跡

豊後竹田駅構内に設置されている模型

御殿がつくられた西の丸跡
西の丸は、当初三代藩主(久清)によって普請され、隠居後の居住地として用いられた。元禄2年(1689)以後には、公式行事などが行われるようになり、藩主の居住所または藩政の執務などにも使われるようになった。

二の丸跡に建つ瀧廉太郎銅像

別名臥牛城(がぎゅうじょう)
所在地大分県竹田市竹田
地形種類竹田市街の東、標高325mの台地上の要害に築かれた山城
築城年代
築城者
文治元年(1185)緒方惟栄(おがたこれよし)築城と伝えられる
元徳3年(1331)志賀貞朝(しがさだとも)城を拡張
慶長元年(1596)中川秀成(なかがわひでしげ)本丸完成
遺構建物は失われたが、累々とした壮大な高石垣が残る

東中仕切
後方の石垣は本丸跡。

太鼓櫓門は、城の中枢である本丸・二の丸・三の丸への関門として重要であり、出入については入念に管理されていた。また、太鼓櫓では、時を知らせるなどの重要な役目を担っていた。

東中仕切跡(東側)から見た本丸。手前石垣上が御金倉跡

岡城の歴史
 岡城は、文治元年(1185)大野郡緒方荘の武将緒方三郎惟栄が、源頼朝と仲違いをしていた弟義経を迎えるため築城したと伝えられる。その後、元徳3年(1331)豊後国守護大友氏の分家で大野荘志賀村南方に住む志賀貞朝が、後醍醐天皇の命令をうけ入り、岡城を修理して北朝と戦ったとされるが、この時期のことは定かでない。天正14年(1586)から翌年の豊薩戦争では島津の大軍が岡城をおそい、わずか18歳の志賀親次(親善)は城を守り、よく戦って豊臣秀吉から感状を与えられた。しかし、文禄2年(1593)豊後大友義統(よしむね)が領地を没収されると、同時に志賀親次も城を去ることになった。

 文禄3年(1594)2月、播磨国三木城(兵庫県)から中川秀成が総勢4千人余りで入部。大規模な造営工事をおこない、戦国の山城から近世城郭へと変貌を遂げる。本丸は、慶長元年(1597)に完成。寛文3年(1663)には西の丸御殿がつくられ城の中心部分とされていった。以後、岡藩中川氏の居城となり、12代久昭(ひさあき)のとき明治維新を迎え、廃城となった。

 瀧廉太郎は、少年時代を竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったとされ、明治34年(1901)に中学校唱歌「荒城の月」を作曲、発表している。

アクセス〜JR豊肥本線「豊後竹田駅」から徒歩20分。又は車で6分

登城口
この道を登って行くと大手門跡

岡城総役所跡の駐車場
後方に石垣が見える

駅構内からみる駅前の様子

豊後竹田駅

岡城周辺図

▼太鼓櫓門

▼下原門

▼近戸門

▼大手門

西の丸御殿跡

西の丸御殿へと続く石段

天守にあたる御三階櫓跡の石垣

御金倉跡

本丸跡 後方は東中仕切跡、廟所跡方面

本丸への石段

史跡岡城跡

御廟所跡

本丸から見る三の丸と右が二の丸方向

西の丸御殿跡

二の丸(左奥)・三の丸(右手前)の高石垣。中央の樹木が高く生い茂っている部分が本丸

古大手門跡
慶長18年(1613)に朝日がまぶしいため、古大手門から現在の位置に移された。

城内側からの大手門跡
大手門は、城の正面に位置する門で、追手門と本来いう。追手とは、敵を追いつめる方向にあるという意味で、籠城のとき敵を正面に追いつめて戦闘を集中させるのが目的であった。

■大手口から大手門跡へ続く石段

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(上・左)近戸門跡 近戸門は、城と城下を結ぶ3つの口(他のふたつは大手口、下原口)のうちのひとつ。

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