このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
【岡崎城の沿革】岡崎城の期限は15世紀前半までさかのぼる。明大寺の地に西郷頼嗣(よりつぐ)によって築城されたのがそのはじまりである。その後、享禄4年(1531)に松平清康(家康の祖父)が現在の位置に移して以来、ここが岡崎城と称されるようになった。 天文11年(1542)12月26日、松平竹千代(徳川家康)は、ここ岡崎城内で誕生した。家康は、6歳で織田信秀(信長の父)、8歳で今川義元の人質となり、少年期を他国で過ごしたが、永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で、今川義元が戦死したことを契機に自立した。ときに19歳。以来、岡崎城を拠点(浜松城に移るまで11年間在城)に天下統一という偉業への基礎を固めた。 元亀元年(1570)、家康は本拠を遠江浜松(静岡県浜松)に移し、嫡男信康を岡崎城主とした。天正7年(1579)に信康が自刃したあとは、重臣の石川数正、ついで本多重次を城代とした。天正18年(1590)に家康が秀吉によって関東に移されると、秀吉の家臣田中吉政が城主となるが、家康が江戸に幕府を開いてからは、譜代大名にここを守らせた。 江戸時代、岡崎城は「神君出世の城」として神聖化され、本多氏(康重系統)、水野氏、松平(松井)氏、本多氏(忠勝系統)と、家格の高い譜代大名が城主となった。石高こそ5万石前後と少なかったが、大名は岡崎城主になることを誇りにしたと伝えられる。西郷氏が築いた当初の岡崎城は、砦のようなもので、城域も現在の本丸程度であったであろうと考えられるが、家康の頃までには近世の城郭としての原型ができあがった。田中吉政は、大規模な城郭の整備拡張を行い、文禄元年(1592)に、城の東・北・西に総延長4.7キロに及ぶ総堀を巡らした。また、元和3年(1617)本多康紀のときには、3層3階地下1階で、東に井戸櫓、南に付櫓をもつ複合天守に再建した。城郭の整備にともない東海道が城下に引き入れられ、慶長14年(1609)には伝馬町ができて、岡崎は東海道有数の宿場町として繁栄するに至った。明治維新を迎えると情勢は変わり、新しい時代には不要とされた城郭の大部分は明治6〜7年(1873〜74)にかけて取り壊されてしまった。 ※写真は徳川家康公銅像(岡崎公園内) | |
▲乙川北岸に築かれた岡崎城址を殿橋から望む | ▲神橋から見た本丸石垣。後方は天守 |
▲本丸跡と復興天守 | ▲青海堀。本丸防衛のため築かれた空堀 |
復興天守 昭和34年(1959)に、ほぼ昔通りの外観天守が復元。鉄筋コンクリート3層5階で、内部は歴史資料館。 岡崎城の天守は、田中吉政が最初に建造したという。元和3年(1617)、本多康紀が築造した天守は3層3階、地下1階、望楼式で、南に付櫓、東に井戸櫓が付く複合天守だった。 |
岡崎城データ | |
別名 | 龍城(たつがじょう) |
所在地 | 愛知県岡崎市康生町・岡崎公園内 |
地形種類 | 乙川北岸に築かれた平山城 |
築城年 築城者 | 康生元年(1455)頃、西郷頼嗣(よりつぐ)により築城。文禄元年(1592)、田中吉政が整備拡張 |
文化財区分 | 岡崎市史跡(昭和37年・指定) |
再建造物 | ●天守(1959年、ほぼ昔どおりの外観の天守が復元)●大手門(国道1号線沿いの公園入口に1993年完成。旧大手門の位置ではなく、七間門跡に移動して建造)●東隅櫓(2010年木造復元) |
遺構・現況 | ●本丸を中心に、複雑な曲輪跡と空堀・水堀・石垣・虎口・井戸跡などが残る。●本丸と二の丸跡を中心に、岡崎公園として整備され、「日本の都市公園100選」「日本のさくら名所100選」「日本の歴史公園100選」また平成18年には、「日本100名城」に選定された |
訪問日 | 2016年6月再訪問 |
岡崎城址めぐる | |
(現地案内板に一部追記し掲載) | |
【再建造物】 | |
北側から望む天守閣(背後) 竹千代(徳川家康の幼名)像、家康公像の後ろは空堀(青海堀)。北面の天守直下には、かつては廊下橋が架かり、持仏堂曲輪と結ばれていた。 | 大手門 二の丸入口に地元産みかげ石を使用して復元された。本来の大手門は、この場所より北東へ約250mの位置にあった。高さが11m、幅が16,4mある。 |
東隅櫓 明治維新後に取り壊された東曲輪の南東隅に位置する二重櫓。設計図などが未確認のため、「岡崎城絵図」および現存する伊予松山城の櫓を参考に、江戸時代の工法により木造復元された。 | 東曲輪外から眺めた東隅櫓 現在、東曲輪跡は駐車場に改変。東隅櫓の後ろは切通しとなっている。 |
【遺 構】 | |
昔の舟着き場 昔は帆掛け舟が荷物を沢山積んで菅生川(乙川)を上がり下がりした。ここが積荷をあげおろしした昔の舟着き場。岡崎には「五万石」という古謡がある。「五万石でも岡崎さまは、お城下まで舟が着く」。この帆掛け舟を形どった碑は当地方特産の花崗岩で出来ており、その古謡に因んで「五万石舟」という。 | 水堀(龍城堀)と巽閣 城址南端の風呂谷曲輪に沿って残る水堀。中央の建物は、本丸辰巳櫓跡に建てられた巽閣(有料貸館施設)。 |
水堀(本丸の南西側) 朱塗りの橋は神橋(公園整備にともなって造られた橋)。 | 本丸石垣 腰曲輪の風呂谷曲輪から見た石垣。 |
坂谷門跡(門内側) 本丸西側の坂谷曲輪に設けられた枡形門。現在石垣が残る。門前方には丸馬出しが構えられていた。 | 坂谷門跡(門外側) 門の後方は天守。 |
本丸埋門(うずみもん) 本丸には虎口が4か所あり、その一つである西面の虎口。 | 本丸埋門(本丸側) |
風呂谷(ふろだに)門跡 風呂谷曲輪から本丸へ通じる虎口。石段を登った所が右写真となる。 | 風呂谷門跡 ここには、重層の櫓門が構えられていた。 |
青海堀 創築者西郷頼嗣( | |
本丸(北西側)の空堀 | 空堀 青海堀すぐ北に残る堀。後方は二の丸。 |
二の丸井戸跡 岡崎城二の丸御殿の井戸。二の丸御殿の絵図には、建物の北東側に2基の井戸が表示されており、そのどちらかと考えられる。 | 二の丸井戸跡 二の丸御殿の井戸。この井戸は江戸時代の石組井戸で、平成19年度の発掘調査で発見された。 |
【天守閣展示物および周辺施設】 | |
旧岡崎城の用材とくぐり戸 | 旧天守の心柱の礎石 心柱は3階まであったと考えられている(天守1階に展示) |
旧岡崎城の城門の扉 | 旧岡崎城の鯱 |
出世開運 龍の井 康正元年(西暦1455年)岡崎城竣成の日、龍神の出現により、別名を龍ヶ城とした。天文11年(西暦1542年)家康公城内にご誕生の刻、金の龍が昇天したと伝える。吉兆の度に、この井水が噴出し、龍神に注ぐ不可思議にこれを祈り、出世開運の井と称えられている。 | 東照公遺訓碑 人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず、不自由を常とおもえば不足なしこころに望おこらば困窮したる時を思いだすべし、堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもえ勝事ばかり知りてまくる事をしらざれば害其身にいたる、おのれを責て人をせむるな、及ばざるは過たるよりまされり。 慶長8年正月15日 人はただ身のほどを知れ草の葉の露も重きは落つるものかな。 |
【二の丸・風呂谷曲輪】 | |
二の丸跡 左端は三河武士のやかた家康館、右端はからくり時計、中央の茶店右横には二の丸井戸跡が残る。再建された大手門は、茶店の右斜め後方に位置する。 | からくり時計 9時〜17時の毎正時に、家康人形が能を舞い、遺訓を語る。 |
旧岡崎城 城郭模型(天守閣4階展示。文字を追記し掲載) この城郭模型は最期の岡崎藩主を勤めた本多家によって岡崎市に寄贈された。版籍奉還後の1873〜1874年(明治6〜7)に取り壊される以前の岡崎城を知る人々の記憶や資料を基に作成されたものという。平面の絵図ではわからない土地の高低などがこの模型によりわかる。現在、本丸・二の丸・坂谷曲輪・風呂谷曲輪・水堀などが史跡として保存され岡崎公園となっている。本丸には再現された天守があり、本丸北側の虎口からは、持仏堂曲輪・二の丸に至る。 本丸と持仏堂曲輪・二の丸を隔てる空堀は、築城者の名にちなんで青海堀と呼ばれ、現存遺構のなかでは一番深い堀である。本丸の北に位置する二の丸は城主の居宅である御殿が置かれるなど藩政機能の中心となった場所である。今では岡崎公園以外は宅地や商業店舗となり城の痕跡をとどめない。 | しかみ像 世に云うしかみ像「徳川家康三方ヶ原戦役画像」は、浜松の三方ヶ原で武田の大軍に無理な戦いを挑み、負け戦となり多くの家臣を失った家康が、自戒の念を忘れることのないように描かせたものと伝えられ、顔をしかめて苦渋の表情をあらわした珍しい肖像画で、このしかみ像は、かの画像を基にして制作された石像。 |
東照公(とうしょうこう)えな塚 この城で生まれた徳川家康のえな(胞衣)を埋めた塚で、もと本丸南にあったものを、ここに(坂谷曲輪跡)移して記念とした。 | 東照公産湯の井戸 天文11年(1542)12月26日徳川家康が岡崎城内で誕生した。この井戸の水を汲み、産湯に使用した。本丸の北西、坂谷曲輪跡にある。 |
岡崎城地図の一部 水野氏時代から後本多氏時代にかけての地図。本丸を中心に持仏堂・隠居・風呂谷などの曲輪が取り巻き、北から東に二の丸・三の丸・東・備前・菅生ほかの曲輪が広がる複雑な縄張りであった。三の丸は家老級の屋敷で、二の丸は藩主の住居である。 ①坂谷曲輪 ②風呂谷曲輪 ③白山曲輪 ④東曲輪 ⑤北曲輪 ⑥三の丸 ⑦稗田曲輪 ⑧浄瑠璃曲輪 ⑨備前曲輪 ⑩菅生曲輪 | |
名鉄名古屋本線「東岡崎」駅から徒歩約15分(案内図は現地案内板より) 地域別訪問城に戻る |
▲徳川家康誕生の城
大手門(再建)と左後方は天守閣(再建)
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