水の手御門跡
備中松山城(小松山城)本丸の後方(最北端)の水の手御門跡から遊歩道が通じている。石積上は、後曲輪、九の平櫓跡となり、大松山へは石積横を前方へと進む。
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大松山城跡へ通じる遊歩道
遊歩道には石垣の上に築かれた土橋が架かる。大松山城へは、ここから徒歩20分ほど。途中には相畑城戸跡、天神の丸、大池などの遺構が点在。 |
土橋
小松山城と大松山城を結ぶ重要な橋。石垣上に築かれ、合戦時には本丸防衛のため落された。
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番所跡
土橋を渡ったところにある番所跡。 |
車井戸
現在、城内唯一の水源として防災(貯水槽)用や管理用の水源に利用されている。
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相畑城戸跡周辺
相畑城戸跡は、一部民有地であり、遺構整備はされていない。 |
相畑城戸跡(標高約440m)
天神の丸から小松山へ続く尾根上にあたる。天正2年〜3年(1574〜1575)に起こった松山合戦(備中兵乱)の古戦場で土塁など残るが、近世になって積極的に利用されており、近世城郭(小松山城)に関わる堀切や井戸、番所などが築かれた跡が残る。
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勢龍が壇(せいろうがだん)
曲輪跡。天神の丸跡に本丸が置かれたときの出丸と考えられている。 |
史跡備中松山城跡 天神の丸跡
標高約480mの臥牛山最高峰天神の丸の山頂と南北に延びる尾根上に位置しています。天正2年(1574)に備中松山城主の三村氏と毛利氏との間で起こった備中兵乱で、最初に陥落したところといわれており、中世城郭の遺構が残っています。尾根上に5つの平坦面が連なって築かれ、北側から本丸、出丸と考えられています。また本丸と出丸の間には深い堀切がみられます。
本丸には、「天神社」という神社があったことが江戸時代の絵図からうかがい知ることができます。創建は分かっていませんが、慶長年間(1600年ごろ)の絵図に描かれているのが最も古く、このころにはすでに創建されていたと推定できます。天神社は、明治初期までここにあったといわれており、その後、荒廃したため、現在は城下にある寺町の龍徳院に祀られています。(文と城図は城内解説板より)
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大松山城と天神の丸の分岐点
左に行くと大松山城、右に行くと天神の丸。 |
天神社跡(復原)
天神の丸天守跡には後に営まれた天神社の御社壇跡が残っている。歴代城主が領国の安泰祈願を行った。
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天神の丸の堀切 |
大松山城跡
臥牛山の最北に位置し、臥牛山で最初に城が築かれたところ。
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史跡備中松山城跡 <大松山城跡>
標高470mの大松山山頂と西に延びる尾根上に位置しています。延応2年(1240)に有漢郷(現高梁市有漢町)の地頭であった秋庭(あきば)三郎重信が築城したと伝えられています。臥牛山ではじめて城が築かれたところで、中世城郭の遺構が残っています。
東西に連なる6ヵ所の平坦面がみられ、周辺には腰曲輪と考えられる小さな平坦面が数ヵ所、井戸と考えられる石組遺構が1ヵ所あります。平坦面は東から本丸、二の丸、三の丸と呼ばれており、二の丸と三の丸の間には堀切があります。発掘調査によって、この堀切は箱堀状であることが分かりました。また、本丸と二の丸の間にも堀切が存在する可能性が高くなっています。(文と城図は城内解説板より)
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大松山城跡
真中より右手が本丸、左手が二の丸。
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井戸跡
井戸と考えられる石組遺構。
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大池(標高445m)
石積で作られた方形の池。地元では「血の池」と呼ばれ、人の首や戦で使われた刀を洗ったと伝えられる。別名「首洗いの池」。山中に数ヵ所ある水利(井戸や溜井戸)のうち最大のもので、総石積の人工池。日照りが続いても乾かない渇れないよう屋根がかけられ、小舟が浮かべられていたという江戸時代の記録が残る。
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大松山城跡(右側)
大松山吊り橋から見た大松山城跡北東面。 |
切通(堀切、横堀)
概ね孤立峰である臥牛山が、唯一、連なっている北東の一部の守りを固めるために築かれた。
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番所跡(標高420m)
切通を越えて出入りする者の監視のために設置された番所(跡)
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