このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

大内氏館跡
おおうちしやかたあと
国史跡 昭和34年11月27日指定
【所在地】 山口県山口市大殿大路

 ここは、大内氏24代弘世が正平15年(1360)頃それまでに館があった大内御堀から山口に移り、館を定めたところです。

 大内氏は弘世以後歴代がここで政務をとり、その領国は、中国・九州地方までおよんだため、山口は西日本の政治経済の中心地となりました。

 また、大内氏は海外との交易によって富の蓄積と異国文化の移入、京の戦乱を避けて公卿・僧侶などの文化人が、この館を訪れたことによって、当時の山口は京都をしのぐほどの富みと文化を誇ったといわれています。

 天文20年(1551)大内氏31代義隆は重臣陶晴賢の叛乱により滅亡しました。

 その後、陶氏を滅ぼした毛利氏は、弘治3年(1557)大内義隆の菩提を弔うため、この館跡に龍福寺を建立しました。

  館は、百間四方の堀と土塁に囲まれた中に造られていたと言われています。現在は、ほとんどその面影を見ることは出来ませんが、山門の東側竹藪の中に土塁の一部を見ることができます(現地説明板より)。
<訪問日 2017年12月再訪問> 

  
(左)瑠璃光寺庭園にある大内弘世の銅像 (中)大内文化の最大の華、国宝・瑠璃光寺五重塔 (右)大内氏館跡龍福寺

 
「現在地」に立つ周辺マップより



復元された遺構

【池泉
(ちせん)庭園】 

 中島のあるひょうたんのような形をした池で、大きさは南北約40m、東西約20mあります。池の縁には護岸のための石が並べられた部分があります。水は土塁上から池へとつながる水路から引き込み、南西側に排水したものと考えられます。

 西側の護岸が直線的であることから、この付近に池をながめる建物があったと考えられます。この池は1400年代末につくられ、1500年代中頃まで使われました。

(現地説明板より)

【塼列
(せんれつ)建物】

 池泉庭園と同時期につくられた建物で、地面には塼を埋め込んでいます。塼とは焼成した煉瓦のことで、この建物には、縦約30㎝、横約30㎝、厚さ約2㎝の塼が使われています。建物の大きさは南北長約4.6m、東西幅は建物がさらに西に広がるため不明です。

 中世の遺跡で検出される塼列建物の多くは蔵であることから、この建物も大内氏館につくられた蔵の一つと考えられます。
 
(現地説明板より)
北東側から見た塼列建物(灰色で表示)。礎石は塼列建物とは別の時期のもの。


 【石組(いしぐみ)かまど】
 池泉庭園と同時期につくられたかまどで、東側から薪などの燃料をくべるつくりになっています。U字形に石を組んだ燃焼部が2つあり、北側のものは南北約0.8m、東西約1.2m、南側のものは南北約1m、東西約1.3mの大きさがあります。

 かまど周辺からは調理具などの日用雑器が多く見つかったことから、この場所は台所と考えられます。
  
 (現地説明板より)


【石組溝
(いしぐみ)

 館跡の西辺の調査で石組の溝が見つかりました。溝底には水が流れた痕跡が見られたことから、排水溝であったと考えられます。この溝はここから少し南で西側に折れ曲がっています(写真参照)。

 溝は折れ曲がってしばらく西に行くと、西堀により壊されているので、この溝が機能していた時期には館の敷地はさらに西側に広がっていたものと考えられます。

 この溝は1500年代前半にはつくられ、北にある西門の廃絶とともに(1500年中頃)埋め戻されたようです。
 ここでは、発掘調査で見つかった石組溝そのものを展示しています。
 
(現地説明板より)


【西門
(にしもん)

 館跡の西辺の調査で、小規模な門跡が見つかりました。この門は地面に穴を掘り、柱を据え付けて、その両側を石で押さえ安定させるつくりで、地面には砂利が敷かれていました。

 この門は、屋敷地内における位置や大きさから考えて、正門ではなく、屋敷の中の区画を仕切る内門であったと考えられます。

 発掘調査で発見されたのは、柱を据える穴と、柱を両側から押さえる石と砂利敷きだけでしたが、江戸時代はじめの木割の秘伝書「匠明(しょうめい)」や、この門とほぼ同時期の京都の風景を描いた「洛中洛外図屏風」などを参考にして当時の姿を復元しました。

(現地説明板より)
西門があった1500年代中頃の大内氏館の敷地(点線部分は推定)


【枯山水
(かれさんすい)庭園】
 この庭は水を使わずに石や砂で水の流れを再現する枯山水庭園で、滝から滝壺に流れ落ちた水が建物の周囲を流れていく様子を表現したものです。この庭は1500年代前半頃につくられ、1500年代中頃に火災で庭園としての機能を失いました。火災の後に庭石のいくつかは動かされ、西側の一部は1500年代後半に西堀の掘削により壊されました。
 この庭がつくられた頃の当主は大内義隆と考えられ、大内氏の文化も最盛期を迎えました。そのため、この庭は華やかな大内文化を今に伝えるものと言えます。
 この庭は破壊を受けているものの、当時の姿を比較的良く残していることから、発掘調査で見つかった庭園そのものを露出して整備することとし、石が抜けた部分には石を補充し、遺構が全く残っていない西部には土手状に盛土をして植物を植えました。、

(現地説明板より)


【土塁・堀】

池泉庭園から枯山水庭園にかけての土塁


枯山水庭園・西門が復元されている側の土塁・堀跡。後方は築山跡

<大内氏館跡周辺図(現地案内板に追記)>

【アクセス】JR山口線「山口駅」から徒歩20~25分。
訪問時、山口駅前のレンタサイクル店の自転車を利用。
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