このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

忍城
所在地埼玉県行田市本丸
地形種類行田市の中心に位置し、周囲の沼沢を天然の堀とした平城
別名忍の浮き城。亀城
文化財指定区分埼玉県指定旧跡
遺構土塁・堀・移築門
現況整備事業により、本丸周辺の堀と土塁が復元されるとともに、御三階櫓が復元
追記難攻不落を誇り、関東七名城のひとつと謳われた。徳川家康が関東転封後は、江戸防備の要衝として、家康の四男松平忠康が入封したのをはじめ、老中格の幕閣の居城となった。
※データは2009年7月現在

鐘楼
 忍藩の時鐘は、1823年(文政6)、伊勢桑名から入封した松平忠堯[ただたか]が持参してきたもので、郷土博物館に展示されている。


(下)復元された堀、土塁、土塀越しにみる鐘楼。

■浮き城の径から見る「忍城御三階櫓」
■御三階櫓・あずま橋・東門

伝進修館表門
●この門は、行田市城西の旧芳川家表門を移築・復元したもので、かっての藩校「進修館」の表門であったと伝えられている門。
一間一戸、高麗門、切妻造、桟瓦葺で、当初は赤彩された赤門であった可能性も指摘されている。また、解体時に発見された冠木柄表面の墨書銘から、天保3年(1832)に御奉行後藤五八、大工町世話方大工宋兵衛等によって建立されたことが判明している。
●戦災によって一度移築されていることなどから、藩校「進修館」の門であるのかは確定していないが、現存する行田市唯一の武家屋敷の表門として貴重な歴史的建造物であるといえる。

「浮き城の径」から「東小路」へ至る入口に建つ冠木門

■忍城の復元された御三階櫓
1988年(昭和63)、本丸跡に再建された三階櫓。1階屋根に千鳥破風、3階屋根に唐破風を備え、白壁に切られた連子格子造りとなっている。天守の役割をはたした。御三階櫓の右後方は、復元された堀に架かる再建の「あずま橋」と「東門」

【忍城の由来】
●忍城(おしじょう)は文明10年(1478)頃、成田顕泰[あきやす]により築城された「守り易く攻めにくい」難攻不落の名城であったと伝えられている。天正18年(1590)豊臣秀吉の関東平定の中で戦われた石田三成による忍城水攻めにも耐え、この城は水に浮くのかと恐れられ「忍の浮城」とも称されたという。
●寛永16年(1639)時の老中阿部忠秋[ただあき]が入城し忍城大改築に着手。孫の正武[まさたけ]の代にいたり忍城御三階櫓の建設、城門、土塀の修築などが完成し面目を一新したという。文政6年(1823)伊勢の桑名から松平忠堯[ただたか]が移封し忠誠[ただざね]のとき明治維新を迎えた。行田市では維新後とりこわされていた城郭の面影を再建し永く後世に伝えることになった<城内説明板より>

<城内案内説明板に一部加筆の上、掲載>

本丸跡の土塁
 郷土博物館の南西部にわずかに残る本丸西側を囲む土塁の遺構。
 旧状を良く残している。

■忍城周辺図
秩父鉄道行田市駅から、忍城まで徒歩15分。

■国道125号線側から望む、堀に架かるあずま橋と御三階櫓。
 土塁上に狭間(さま)を切った瓦葺きの土塀がのび、本丸を囲む(復元)

東小路

本丸跡に復元された土塀・土塁・御三階櫓

■東門(城内側)
■あずま橋と東門
「行田市駅前の観光案内板より」

■水城公園
今も満々と水をたたえている「しのぶ池」は、かつて忍城の外堀であった。

■行田市郷土博物館入口
後方には、御三階櫓が聳える。
明治の廃藩置県ののち、城内の建物は破却されて姿を消したが、1988年(昭和63)、行田市郷土博物館の開館とともに御三階櫓が再建された。



伝進修館表門の城内側

〜忍城址をゆく〜



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