このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

{本多家家紋/丸に立葵(たちあおい)

本多忠勝十万石居城

<徳川四天王の一人本田忠勝が天正18年に築城>

【所在地】千葉県夷隅郡大多喜町

千葉県立中央博物館 大多喜城分館

千葉県指定史跡の上総大多喜城本丸跡に建設された天守閣づくりの特色ある歴史博物館
       開館時間  午前9時〜午後4時30分(入館は午後4時まで)
       休館日    *月曜日(祝日・休日の場合は開館し、翌日休館)
               *12月28日〜1月4日
               *その他 展示替等の臨時休館日
       入場料    有料

大多喜城の歴史
 大多喜の中世の頃の地名は、史料の中に小田喜と見られますので、大多喜城も、その頃は小田喜城ないしは小田喜の城と呼ばれていたと思われます。
 
 16世紀の前半代に武田氏が入城したと言われていますが、天文期(1532〜1555)に安房の里見氏の重臣であった正木氏が入り、以後4代にわたり、上総正木宗家の居城として発展します。
 
 その後、1590年(天正18年)に北条氏の小田原城が豊臣秀吉に攻め落とされると、徳川家康は江戸城に入り、小田喜城を家臣の本多忠勝(ほんだただかつ)に与えて安房の里見氏の勢力をおさえようとしました。
 
 当時の城のようすについて、1609年(慶長14年)にここを訪れたスペイン人のドン・ロドリゴは、「城は高台にあって濠に囲まれ、城門は大きく全て鉄でできており、厳重に警戒されている。また、城の内部は金や銀の配色で美しく、立派な武器庫もあった。」(日本見聞録)と、驚いています。

 城主は本多氏3代のあと、阿部・青山・稲垣氏へと引継がれ、1703年(元禄16年)松平(大河内)正久となりました。松平氏は9代続き廃藩置県を迎えます。
 
 千葉県教育委員会は、この歴史のある大喜多城本丸跡に、昔をしのんで城郭様式の千葉県立総南博物館を建設し、昭和50年9月に開館しました。平成18年4月からは千葉県立中央博物館の大多喜城分館となっています。
(現地案内資料より)
大多喜城地之絵図

 元大多喜城主大河内松平家に伝来した絵図で元禄年間に描かれたものと推定される。大多喜城は夷隅川と谷に囲まれた標高73メートルの台地にある。城の構成は頂上部に本丸、その東一段低く二の丸、麓に三の丸という梯郭式縄張で、本丸の背後には詰めの丸を備えている。

上総大多喜城絵図
 上総大多喜城は、初代城主本多忠勝によって築かれ、西から東に張り出す丘陵を利用し、本丸・二の丸・三の丸を配置し、西は尾根を切る空堀、南は夷隅川に落込む急崖、東と北は水堀という要害堅固の城です。  この城絵図は明治元年(一八六八)、最後の城主松平正質(まさただ)の時、作図されたものです。

城跡空中写真
 現在、二ノ丸跡・御殿跡は県立大多喜高校となっている。


本丸からみた二ノ丸跡

二ノ丸跡からみた本丸
 本丸跡に建つ大多喜城三重模擬天守と、右下は柵で囲まれた大井戸遺構。


大多喜城三重模擬天守から望む大多喜市街

遺構と再建造物

城内の建物は明治初期に取り壊されてしまい、二の丸御殿の薬医門と大井戸が現存

四ッ門跡
 大多喜城から数えて4番目の門。

御禁止川(おとめがわ)
 大多喜城の本丸下を流れるこの川は、城主が江戸時代に魚を獲ることを禁止したので御禁止川と呼ばれた。城主が参勤交代の折には、御禁止川の「むらさき鯉」を、将軍家に檜のたらいに入れて、生きたまま献上したといわれている。


空堀跡
 大多喜城駐車場(町営駐車場・無料)から本丸へ向う途中の右手に築かれている


現地説明板より(以下同じ)

本丸に残る土塁跡
 模擬天守閣入口の向い側に残る。


三重模擬天守(大多喜城分館)の石垣


本丸に復原された土塀
 土塀後方は二ノの丸跡。

二の丸に残る大井戸(県指定史跡)
 県立大多喜高校敷地内(二の丸跡)に残り、本多忠勝候が掘ったもので、水が涸れたことがないと言われている。後方は大多喜高校運動場。
 

大井戸

上総大多喜城薬医門
(千葉県指定有形文化財)
 この門は大多喜城内建造物唯一の遺構である。本柱が中心より前方にあり、控柱を付けた薬医門形で、天保13年の火災後に建築された二の丸御殿の門である。

薬医門(城内側)


大多喜城下地図


城下町「大多喜」
 「大多喜」は江戸時代、佐倉・関宿・久留里・佐貫等と並ぶ城下町であった。町割は鍵折型の房総中往還道に沿い、北から南に紺屋町・田丁・猿稲町の職人町、久保町・桜台町の商人町、新町は宿屋が軒をつらね、三口川を越えた柳原町まで市街が開けており、根古屋7町と呼ばれていた。
 慶長14年(1609)岩和田沖で難破して、大多喜を訪れたドン・ロドリゴの「日本見聞録」には、城下の人口1万人ないし1万2千人と記され、江戸後期、文政年間に書かれた十返舎一九の「金草鞋十七篇」にも、大多喜の宿の賑わいが載っている。また、市街の外廻川(現夷隅川)沿いには20余の寺院が配置され城の防衛の拠点となっていた。


いすみ鉄道大多喜駅
 ここから大多喜城まで徒歩約15分。

現在の大手門(歓迎門)
 写真には写っていませんが、手前右側が大多喜駅となり、この門をくぐって大多喜城へと向って行く。


大多喜水道跡
 千葉県最古の水道施設と言われる。江戸時代から計画され明治3年に完成。


渡辺家住宅(国指定重要文化財)
 この建物は嘉永2年に建築された江戸時代後期の町家。

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