このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

  おとご
乙子城    (岡山市乙子)

[乙子城址全景]

歴史
 宇喜多直家(のちの岡山城主)が、天文13年(1544)に乙子山に構えた連郭式の小型山城。後に備前、美作一帯を統一し、戦国大名に成長した直家が、城主としての第一歩を踏み出した記念すべき城。直家最初の居城で、「国とり」はじまりの地といえる。

 宇喜多直家は天文12年(1543)浦上宗景の家臣となり、赤松晴政の軍と播磨で戦い殊勲をたて、この戦功と祖父能家の旧功によって、足軽30人と300貫の領地を与えられ乙子城主となった。

 直家はここに5年間在城し、この地の治安維持と戦功を挙げた。その恩賞に岡山市竹原(上道郡奈良部)の新庄山城を与えられ、天文18年(1549)に移転した。

 その後、乙子城は持城として、弟の浮田忠家を城主に置いていたが、宇喜多直家が永禄2年(1559)に亀山城(岡山市沼)に移り、岡山市平野の平定が進むにつれその存在価値が薄らぎ廃城となる。
<現地説明案内板より>

▼写真左は本丸跡(頂上部分)、写真右側は二の丸跡

{現在の乙子城周辺図}
※かっての児島湾は広大で、後の新田開発によりその大半が干拓され、幸島新田、沖新田などの美田にかえられた。
※乙子城は、当時の吉井川河口付近に位置し、邑久郡の穀倉地帯の南側を画する山々の西端にある乙子山山頂にあり、児島湾と邑久郡千町平野それに上道郡南東部を一望でき、臨海性の戦術拠点であった。

【乙子城周辺の変遷 / 今と昔】

【城の構成】

▼乙子城址本丸

▼本丸より吉井川および西大寺市街を望む

◆写真左は吉井川沿いに聳える乙子城址。
右は東側からの写真。

※城は本丸(頂上)・二の丸を構え、腰曲輪、出曲輪が配されている。現在の乙子大明神境内は二の丸の場所、大手筋は現在の参道筋と判断される。各郭は、ともに土段築成で、石垣は認められない。本丸には当時の土塁の痕跡がみられる。

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