このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

頼久寺庭園

■小高下谷川(ここうげだにがわ)〜かっては御根小屋の堀であった。

■配置図の緑字は現在の施設等の設置状況を示す
 御根小屋は備中松山藩の藩主の居館であり、藩の政務を行う役所である。当藩では城が標高430mにあるため、平時の政庁として御城山の麓に造られたものである。北は臥牛山(がぎゅうざん)に接し、南は小高下谷川を堀に見立て、西は現JR伯備線で限られたほぼ三角形の地形で、その面積は約34、000㎡。旧制高梁中学校(現在の県立高梁高校)は、その跡地に建てられており、石垣は御根小屋の原型を今に伝えている。創建年代は不明であるが、天正3年(1575)の兵乱で焼失した記録があることから、その歴史は、戦国時代まで遡ることができる。現在の姿は、江戸時代初期に代官の小堀遠州が再建をはかり、天和3年(1683)当時の藩主水谷勝宗(みずのやかつむね)により完成された。幕末の資料では、登城には惣門を経て御殿坂を登り、中門を通って御殿に至る。中門の北側に作事処(現テニスコート)がある。高梁川で運ばれた米などは川端町で陸揚げされ、御蔵坂を通って米蔵に、武具は一段高い石垣上にある武具蔵(現運動場)に保管されていたことが記録されている。備中松山城御根小屋跡は、平成3年4月に岡山県の史跡に指定された。

頼久寺平面図
 昭和49年7月31日指定  平成21年7月23日追加指定

「頼久寺周辺図」

■御根小屋跡に立つ高梁高等学校

■備中松山藩主の居館と藩庁をかねた御根小屋跡〜現在は、岡山県立高梁高等学校の敷地となり、石垣や御殿の一部が残る。後方の山は臥牛山。(写真左・右)

■洋風木造の外観は、紺屋川美観地区の中でもひときわ目立つ

■明治22年(1889)に建てられた現存する県内最古の教会建築

■現存する校舎〜その後寮に転用されたこの建物は、正面玄関は日本風になっているが、2階の一部をベランダにした和洋折衷の趣きをもっている。

■順正短期大学敷地内の順正寮跡〜キリスト教の信者福西志計子が、明治29年(1896)、県内最初の女学校として順正女学校を創設したときの校舎(後に寄宿舎)。

【頼久寺庭園スライドショー】

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県史跡 順正寮跡
所在地:高梁市頼久寺町
県史跡 高梁基督教会堂
所在地:高梁市柿木町
県史跡 備中松山城御根小屋跡
所在地:高梁市内山下
周辺の見どころ

名勝 頼久寺庭園

 頼久寺(らいきゅうじ)は、臨済宗永源寺派に属し、その草創は明らかではありませんが、足利尊氏の発案で各地に建てられた安国寺の一つとして再興されました。永正年間(1504〜1520)に備中松山城主であった上野頼久の庇護によって大いに伽藍が整備され、頼久の死後、寺号を今の呼び名に改めています。
 
 頼久寺庭園は、小堀遠州(政一)の若いころの作庭として伝えられています。慶長5年(1600)、関ヶ原合戦の直後、小堀遠州(政一)の父正次は備中国奉行として政一(遠州)を伴って松山に赴きました。天正乱後の城は荒廃しており、頼久寺を仮の居館として政務を執っていたことがあり、庭園はその時に作庭されたと言われています。しかし遠州が作庭に携わったという明確な記録が残存しておらず、詳細は不明です。
 
 本庭園は書院東南面の庭園であって、蓬莱式枯山水庭園です。白砂敷の中央に二つの低い築山状の島を置いて石を組み(鶴島・亀島)、書院左手の山畔に沿ってサツキの大刈込が植えられ、大海を表しています。また二島の間には簡素な地割の池があり、正面遠景の愛宕山を借景にした平庭です。この庭園の石組及び地割の主要部には江戸時代初期の手法がみられ、保存管理状態は良好で、全体としてすぐれた意匠を残しています。平成21年7月には、本堂や書院などが指定地に追加され、頼久寺全体が名勝に指定されています。(現地説明板より)

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