このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

備中松山城と城下町高梁
 高梁川左岸に聳える臥牛山と御根小屋跡
◆市街地の北端にそびえ、「おしろやま」の愛称で親しまれている「臥牛山(がぎゅうざん・標高480m)。「大松山」・「天神の丸」・「小松山」・「前山」の四つの峰からなり、南から見た山容が、草の上に伏した老牛の姿に似ているとして、「臥牛山」と呼ばれ、備中松山城はその頂きを中心に全域に及んでいる。山裾の県立高梁高校が建っている所が御根小屋跡。現在、一般に「備中松山城」と呼ばれるのは、この内の小松山の山頂(標高430m)を中心に築かれた近世城郭を指し、天守の現存する山城としては随一の高さを誇る。城内には天守、二重櫓、土塀の一部が現存し、昭和25年に国の重要文化財の指定を受けている。また平成9年には、これら重要文化財を中心に、本丸の正面玄関ともいえる本丸南御門、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが史実にもとづいて復元、さらに天守も平成15年には保存修理が行われて現在に至っている。
 
地域概要
◆備中松山城、武家屋敷や社寺仏閣などの歴史的建造物が周囲の山並みや河川と一体となり美しいたたずまいを形成しており、江戸時代、備中松山城の城下町として栄えた面影を今に伝えている
◆備中松山城所在地:高梁市内山下1
◆交通:JR伯備線 備中高梁駅より車で10分、下車後徒歩20分

備中松山城天守
(国指定重要文化財)
◆城の歴史は古く、鎌倉時代の延応2年(1240)に有漢郷(現在の高梁市有漢町有漢)の地頭に任ぜられた秋庭(あきば)三郎重信により臥牛山のうちの大松山に砦が築かれたことに始まる。その後、小松山に移り、城の縄張りは時代とともに変化し、なかでも天正2年(1574)に起こった「備中兵乱」時は、「砦二十一丸」と呼ばれた出丸が築かれていたことが記録として残っており、臥牛山全域が一大要塞となっていたことがうかがえる。
 当時の城主であった三村氏が滅んだ後も、毛利氏の東方進出の拠点として、またさらに毛利氏が防長二国に退いてからも、備中国奉行として赴任していた小堀正次・政一(遠州)父子により修改築がなされるなど備中の要衝としての役割を担っていたようである。以降、池田氏、水谷(みずのや)氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と城主がかわり明治維新を迎えるが、現存する天守などは天和3年(1683)に水谷勝宗により修築されたものと伝えられている。
備中松山城御根小屋(おねごや)
◆御根小屋は備中松山藩の藩主の居館であり、藩の政務を行う役所である。当藩では城が標高430mにあるため、平時の政庁として御城山の麓に造られたものである。北は臥牛山に接し、南は小高下谷川(ここうげだにがわ)を堀に見立て、西は現JR伯備線で限られたほぼ三角形の地形で、その面積は約34、000㎡。旧制高梁中学校(現在の県立高梁高校)は、その跡地に建てられており、石垣は御根小屋の原型を今に伝えている。創建年代は不明であるが、天正3年(1575)の兵乱で焼失した記録があることから、その歴史は戦国時代まで遡ることができる。現在の姿は江戸時代初期に代官の小堀遠州が再建をはかり、天和3年(1683)当時の藩主水谷勝宗により完成された。備中松山城御根小屋跡は、平成3年4月に岡山県の史跡に指定された。
[城下町高梁周辺地図]

石火矢町(いしびやちょう)ふるさと村(昭和49年12月岡山県指定)
◆備中の小京都ともいわれる高梁は四季折々に色なす山々と清流高梁川に育まれた現存する山城では日本一高いところにある備中松山城をシンボルにもつ城下町である。石火矢町ふるさと村は、現在も武家屋敷通りとしての面影を深くとどめる石火矢町と、かつて城内と城外の境だった紺屋川(伊賀谷川)沿いには、桜と柳の美しい並木が続き、高梁キリスト教会堂や藩校有終館跡などのある紺屋川(こうやがわ)美観地区の2つの地域で構成されている。
◆アクセス:JR伯備線備中高梁駅から徒歩約10分 
美しい日本の歴史的風土100選
(財)古都保存財団では、数々の歴史的風土は美しい日本の国土実現のための国民共有の資産であると考え、
次世代に継承すべき歴史的風土を平成19年(2007)に100ヶ所選び、「美しい日本の歴史的風土100選」を選定
岡山県では、高梁市<備中松山城と城下町高梁>
  岡山市<岡山城、後楽園>
       倉敷市<倉敷美観地区>の3ヵ所が選定
(上)石火矢町武家屋敷通り。(右)山田方谷像。幕末の板倉勝静(かつきよ)の治政に、藩政改革を行ったことで知られる山田方谷(やまだほうこく)は、政治家であるとともに、陽明学者でもあり、また、優れた教育者でもあった。松山藩の財政担当時代は巨額の負債を8年で返すという功績を残し、藩士に学問を教えるだけでなく、農民、商人などの民衆の教育にも力を入れたと伝えられている
頼久寺(らいきゅうじ)庭園(国名勝)。小堀遠州作庭の枯山水庭園
▲天保年間(1830〜1844)に建てられた武家屋敷・旧折井家
岡山城、後楽園

岡山城天守閣と月見櫓

◆戦国乱世の備前を制覇した宇喜多直家。その子秀家は、豊臣秀吉に可愛がられて勢いを得、父直家の死後本格的な城郭建築に乗り出し、慶長2年(1597)、壮麗な岡山城郭を築城。それは、秀吉の大阪城を偲ばせる古式の名城であった。黒い下見板張りの外観から烏城とよばれ、最上層を金箔の瓦で葺き、金の鯱を上げていたといわれ、“金烏城(きんうじょう)”の別名もある。しかし、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に属した秀家は惨敗。築城3年の岡山城は徳川家康に没収されるという悲運。以後岡山城主は小早川氏、池田氏12代を経て明治維新を迎える。本丸の壮麗な建築群は次々と取り払われ、残された天守閣も昭和20年の戦火で焼失したが、昭和41年に再建。現在の天守閣は、築城400年を機に創建時を想定して平成8年に金の鯱を上げ、往時の輝きを再現した。
 

「岡山城天守」と右は「後楽園の桜」

日本三名園の一つ、岡山後楽園
◆岡山藩池田家二代藩主池田綱政公が家臣の津田永忠に命じて、貞享4年(1687)に着工、元禄13年(1700)には一応、完成。その後も、藩主の好みで手が加えられたが、江戸時代の姿を大きく変えることなく現在に伝えられている。
 明治17年(1884)に池田家から岡山県に譲られ一般公開されるようになった。延養亭、鶴鳴館などの建物を中心に、東に操山、南に岡山城を望み、広い芝生が特徴の江戸時代を代表する回遊式の大名庭園。昭和27年(1952)には文化財保護法による「特別名勝」に指定された。
   ◆旭川に架かる月見橋で結ばれた岡山城(国指定史跡)と後楽園(国指定名勝)の所在する一帯は、岡山藩池田家が築いた歴史的遺産が往時の姿を伝えている地域である。

 岡山城天守閣〜昭和41年(1966)11月3日、鉄筋コンクリート造りで再建されたが、外観は全く旧来通りに再現されている。

 岡山後楽園〜金沢・兼六園、水戸・偕楽園とともに日本三名園に数えられている。名称は、岡山城の後に作られた園という意味で後園と呼ばれていたが、「先憂後楽」の精神に基づいて造られていることから、明治4年(1871)後楽園と改められた。

◆アクセス:JR岡山駅から徒歩25分(約1.8Km) 又は市内電車東山行で4分「城下」下車徒歩10分
倉敷美観地区
 
倉敷美観地区<倉敷川畔>
 江戸時代、幕府直轄地である「天領」として栄えた倉敷。美観地区の中心を流れる運河として活用されていた倉敷川の両岸には、土蔵造りの蔵、白壁の町屋の街並みが美しい景観を形成。「国指定重要伝統的建造物群保存地区」であると同時に、伝統的文化に基づく町屋の生活が息づいている。

▲日本郷土玩具館〜江戸から昭和にかけて作られた全国の郷土玩具を展示。

▲倉敷民藝館〜日常の生活の中で使うものの美しさに光を当て、陶磁器、ガラス、織物、金工品、漆器など収蔵。

▲倉敷考古館(右)と倉敷館(左奥)〜土蔵造り米蔵を改装した張り瓦が美しい倉敷考古館には、遺跡から発見された石器・土器・青銅器などを常時展示。倉敷館(国登録)は倉敷町役場として建てられた擬洋風建物

▲大原美術館

▲井上家住宅(国重文)〜住宅横の路地には、米俵を積んだ大八車のわだちだつかないように、車輪の幅に二筋の石畳が敷かれている。

▲倉敷アイビースクエア〜倉敷紡績所跡を再開発した敷地内は文化施設やホテルで構成。

▲高梁基督教会堂。明治22年に建てられた現存する岡山県下最古の教会堂
▲商家資料館。高梁屈指の豪商、池上家の邸宅。全盛を誇った当時の商家の様子や、醤油の製造場なども見学できる
▲郷土資料館。旧高梁尋常高等小学校の本館であり、明治の洋風建築として貴重な建物
備中松山藩の藩校、有終館跡
日本の道百選にも選ばれている紺屋川美観地区
▲建築年代は江戸中期で、寺院建築や数寄屋風を取り込んだ造りの武家屋敷・旧埴原(はいばら)家住宅

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