このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

佐賀藩主・鍋島36万石の居城
《佐賀城》
日本百名城/本丸御殿再建

所在地佐賀県佐賀市城内
別 名「沈み城」ともいう。 その名は、城から遠ざかるにつれ、壮大な天守が楠や松の林に視界を遮られることに由来するという
地形種類四周を幅の広い堀で囲まれた典型的な平城
文化財指定区分「佐賀城鯱の門および続櫓」が国の重要文化財

■天守台
高さ約9m、南北31m×東西27mの巨大な天守台の上に1726年(享保11年)の火災で焼失した天守が建っていた。江戸城の天守が焼失以来再建されなかったこともあり、佐賀藩では、幕府への遠慮もあり、佐賀城の天守を再建することはなかった。

佐賀城周辺図
■JR佐賀駅よりバスで10分、徒歩30分 ■駐車場あり

佐賀城本丸御殿
 藩政の中心だった二の丸御殿が、1835年(天保6年)に焼失したため、10代藩主鍋島直正が再建。その後、1957年(昭和32年)までに鯱の門を除いてすべて解体された。2004年(平成16年)、御玄関、御式台、御料理間、外御書院、御座間等から構成される本丸御殿が木造復元され、佐賀城本丸歴史館として開館した。

「歴史」
戦国期に西九州を席捲した龍造寺氏が本拠としていた村中城の地に建つ。龍造寺氏の衰退をうけて、重臣・鍋島直茂が領主となり、1608年(慶長13年)、旧主の村中城を拡張・整備し、城名も改めた。直茂の子勝茂が初代佐賀藩主となり、1611年(慶長16年)に総普請を完成し本丸に入る。

その後、佐賀藩は、11代直大のとき明治維新を迎える。江戸時代の佐賀藩は、外様各藩の中でも、8番目の石高を誇り、藩祖鍋島直茂から11代鍋島直大まで260年もの長きにわたり、安定した藩政が行われていた。

▼堀と復元された南西隅櫓台
佐賀城を囲む堀は幅約40m。南西隅櫓台は、切り石による「亀甲乱積」という手法で積まれている石垣。

▼石製樋管と赤石積水路
西側土塁石垣の下を潜る水路と、これに続く赤石を用いた当時の水路

▼城門の名の由来となった鯱
高さ約1.7m.の青銅製

▼門扉に残る無数の銃弾跡
1874年(明治7年)の佐賀戦争における激戦のようすがうかがえる

■佐賀城鯱の門および続櫓<重文>
1836年(天保7年)に建立された。屋根の両端に青銅製の鯱が載ることから「鯱の門」と呼ばれている。

佐賀城天守台

城内からみた鯱の門
天守台から望む鯱の門

▼佐賀城鯱の門 「城門の扉」

(地図は佐賀城本丸歴史館パンフレットより転載)

天守台への道 切石と自然石が巧妙に配置されている。

本丸御殿の旧礎石
御殿内からみることのできる旧礎石の一部。
旧礎石はそのままの状態で保存され、復元された御殿はその上に建つ。


▼佐賀城本丸館の内部

▼左より御三家座、御小書院、御座間。左端の石垣は天守台

▼本丸御殿御玄関(左)と鯱の門(右)

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石垣の刻印 天守台の石材の一部には、さまざまな模様が刻みこまれる。諸大名を動員して築かれた「天下普請の城」において、刻印はよく利用されるが、大名の居城の石材では類例が少ない。

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