高梁川東西用水取配水施設 3基1棟
<酒津取水樋門・南配水樋門・北配水樋門・事務所>
[所在地]倉敷市酒津1556 [公開状況]見学自由
[指定区分]国指定重要文化財(建造物) [指定年月日]平成28年7月25日 |
高梁川東西用水組合沿革(現地説明板より)
私達の住む倉敷の町は、江戸時代から明治時代の終わりまで約300年間にわたって干拓され、その土地を守るための築堤により川ができ、高梁川が運ぶ多量の土砂により広大な土地が形成されていった。 しかしながら、川の堤防は簡単なものだったので洪水のたびに大きな被害を受けていた。そこで明治44年(1911年)に高梁川改修工事が国の事業として行われることになり、それに伴い大正5年(1916年)に高梁川東西用水組合が19町村で設立され、14年の歳月を経て大正14年(1925年)に完成した。当時干拓地の用水は高梁川の両岸にあった11箇所の樋門から取水していたが、取水は思うに任せず干ばつ時には水争いが絶えずこれを解消するため、河川改修を機にこれらの樋門を統合し、農業用水を経済的、公平に配分することを目的として、酒津地点に取水樋門と配水池をつくることになった。この大事業の完成によって洪水被害や水争いもなくなり、倉敷市発展の基礎が完成し、現在でも1市1町に安定した農業用水を供給しているものである。 |
酒津配水池の案内図(現地説明板を修正、加筆)
A=酒津取水樋門 B=取水樋門 C=高梁川東西用水組合管理棟 D=高梁川用水改良竣功記念碑 E=南配水樋門 F=北配水樋門
※これらの施設は、近代化産業遺産、土木学会選奨土木遺産に認定。また疎水百選にも選定。
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酒津配水池(面積3.1ha)
Bの取水樋門より、Eの南配水樋門を望む。配水池は、高梁川から取水した水を農業用水として倉敷市と早島町の全土に配水するため、一時的に水を貯めるところ。
※酒津配水池は桜の名所として広く市民の憩いの場として親しまれているが、これらの農業水利施設も長年の使用により老朽化し維持管理に不便をきたしてきたため、岡山県は平成7年から水環境整備により施設の整備を行うとともに併せて水辺の環境を整備し、平成10年3月に完成した。
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Aの東西用水酒津樋門(高梁川に築かれている取水樋門)
高梁川の笠井堰から取水する水門。ここから、高梁川の水が配水池へと送り込まれる。
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Bの取水樋門(酒津配水池側)
高梁川から取水した水が、配水池に流入するところ。
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Cの高梁川東西用水組合管理棟(近代化産業遺産)
木造2階建ての擬洋風で、内部は原則非公開。1926年の建築。
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Dの高梁川用水改良竣功記念碑
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Eの南配水樋門
用水側(写真手前)から見た樋門。写真には映っていませんが樋門後方が配水池。船穂や玉島にいく西岸用水、西阿知や水島にいく南部用水、それと倉敷用水など、5つの水路へ配水を調整する大規模な樋門。アーチ状の樋門は、15連からなる鉄筋コンクリート造り。 |
Fの北配水樋門
水が配水池(樋門右側)から用水(樋門左側)へと出て行く様子。北配水樋門は、6連からなる八ヶ郷用水への配水量を調節する樋門。この樋門から出て行く水は早島町などへと流れていく。 |
宝篋印塔 |
堂応寺宝篋印塔
堂応寺の建物はなく、地名として「堂応寺」が残る。宝篋印塔は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種。基礎、塔身、笠、相輪から成る。
[指定区分] 国指定重要文化財(建造物)
[指定年月日] 昭和40年5月29日 |
周辺図
JR清音駅から西へ行き高梁川に架かる川辺橋を渡る。
「所在地」 倉敷市真備町辻田
「公開状況」 見学自由
「所有・管理者」 個人 |
(写真)宝篋印塔正面
概説〜花崗岩製。基礎、塔身、笠、相輪の各部ともそろっている。鎌倉時代後期正和3年(1314)の造立で在銘の宝篋印塔としては県下で最も大きい。基礎は四面とも無地のままで正面に正和3年の刻銘がある。塔身の四面には月輪内にキリーク(阿弥陀)、タラーク(宝生)、ウーン(阿しゅ)、アク(不空成就)の種子を刻む。笠は六段型で四隅の突起は二弧様式とし、ほとんど垂直に立っている相輪は太くて逞しい。
●基礎 高さ 79㎝
幅 108㎝
●塔身 高さ 59㎝
●笠 高さ 84cm
軒幅 109㎝
●相輪 高さ 104㎝
総高 326㎝ |
施帯文石
[所在地] 倉敷市矢部 王墓の丘史跡公園内
[指定区分] 国指定重要文化財(考古資料) [指定年月日] 昭和57年6月5日指定 |
旋帯文石のある楯築遺跡
王墓の丘史跡公園は大きく3つの地区に分けられ、それぞれに楯築遺跡や王墓山古墳、日畑廃寺など全国的にも有名な遺跡が残されている。楯築地区(国史跡)は、楯築弥生墳丘墓と二つの古墳群からなる。東側の西山古墳群には二基、南側の向山古墳群には10基の古墳が現在公園内にみられる。これらの古墳は、墳丘の流出が著しくかつての姿をとどめていないが、いずれも横穴式石室を伴っており、おおむね古墳時代後期(6世紀後半頃)に築造されたものと思われる。旋帯文石は、楯築地区案内図の収蔵庫に収められている。
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旋帯文石の収められている収蔵庫(正面)
旋帯文石は収蔵庫横の覗き窓から見ることができる。見学自由。右は給水塔のフェンス。 |
旋帯文(弧帯文)が刻まれた石
収蔵庫に収められている弧帯石(こたいせき)は、もと主墳上にあった楯築神社のご神体として伝世されてきたもので、帯状の複雑な入組み文様が刻みこまれている。なお、これとよく似た小型品が発掘によって出土している。 |
反対側の覗き窓から見た旋帯文石
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三彩壷
流水文銅鐸 |
■三彩壷(さんさいつぼ)
[指定区分] 国指定重要文化財(考古資料)
[指定年月日] 平成1年6月12日
[所在地] 倉敷市中央 倉敷考古館(倉敷美観地区内)
[アクセス] 倉敷駅から徒歩約10分
「解説」〜高さ約21.3㎝。奈良時代に製作された陶器。白・緑・黄(褐)三色の釉薬(うわぐすり)を用いた華やかなこの焼物は奈良三彩と呼ばれ、我国で、中国の唐三彩を模して製作された。正倉院にも奈良三彩は五点保存されるのみ。この壷は、岡山県の北部、津山の近郊で1904年(明治37)発見。 |
■流水文銅鐸(りゅうすいもんどうたく)
[指定区分] 国指定重要文化財(考古資料)
[指定年月日] 昭和28年3月31日
[所在地] 倉敷市中央 倉敷考古館(倉敷美観地区内)
[アクセス] 倉敷駅から徒歩約10分
「解説」〜高さ43.2㎝。銅鐸には、ベルのような「舌」を有するものもあり、本来は楽器だったと思われる。弥生時代の村々で重要な祭りの場に使用されたものであろう。表面には時に動物や人物を鋳出しているものもある。この鐸にも狩りをする人物、矢を負った鹿、トンボ、カニなどが見られる。
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