このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
佐倉城 千葉県佐倉市城内町 |
田町門跡〜歴博入口〜姥が池をめぐる
▼「三十三間堀」といわれた歴博入口の水堀
▼銅櫓跡
銅櫓は土居利勝が将軍から拝領し、江戸城吹上庭内より移築したものといわれている。
■本丸跡
台所門跡から望む。中央の長方形をした生垣で囲まれたところが、三重の天守が建っていた天守跡。佐倉城は石垣のない土づくりの城で、城の防御のための土手を土塁と呼びます。周囲は土塁でかこまれ、土塁の上には土塀が存在した。
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【佐倉城地図(城内案内板より)】
佐倉城は、城の中心をなす本丸、二の丸、三の丸などと、家臣の屋敷割がなされた曲輪から構成されている。国立歴史民族博物館は椎木曲輪跡(侍屋敷跡)に建つ。本丸には屋形があり、佐倉藩の政治の中心的な機能を果たしていた。本丸にはそのほかの建造物として、天守、銅櫓、角櫓などがあった。
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戦国時代中頃の天文年間(1532〜1552)に千葉氏の一族である のちに徳川家康がその要害に着目し、家康の命により、慶長16年(1611)、徳川家重臣土井利勝が入封し、台地上に未完のまま残された城跡に築城を開始、約6年かけて完成させた。石垣は使用せず、天然の地形を活かして土塁で曲輪・堀などを築造し、3層の天守が本丸の南西にあった。以後、江戸外郭の防衛拠点として重視されたため、代々譜代大名の居城となる。城主は目まぐるしく変るが、延享3年(1746)、堀田正亮[ほったまさすけ]の入封後、六世126年間11万石を領有して明治維新まで続いた。しかし明治6年(1873)第一軍管第二師営の営所が置かれ城の建造物はすべて取り壊された。その後、歩兵第二連隊、歩兵第五十七連隊などの兵営となった。 現在は佐倉城址公園と国立歴史民族博物館となり、城の建造物は一切残っていないが、角馬出・空堀・土塁・出丸などが良く残り、旧状を偲ぶことができる。市指定史跡。平山城。別名「鹿島城」。 |
▼本丸に築かれた、城を外敵から守る土塁
▼天守跡
▼椎木門跡近くに残る土塁
▼角櫓跡
■馬出し空濠「
城門前に築いて人馬の出入を敵に知られぬようにした土手を馬出という。
この空濠は、明治初期より連隊造営のため埋めたてられていたもので、昭和46年から2回にわたる発掘調査により、長辺121m・短辺40mのコの字型、深さ5.6mの規模と確認された。復元にあたっては長辺、短辺はそのままとし、深さを約3mとしてある。
後方の建物は、椎木曲輪跡(侍屋敷跡)に建つ国立歴史民族博物館。
▲▼出丸跡(南側)の土塁と水堀
土塁上には、城外から城内を見通されるのを防ぐ目的で、松や杉などの常緑樹を植える。ただし、外側の斜面には植えてはならない。
(城内遺構説明版より転載)
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佐倉城跡 |
遺構&見どころ |
「右」佐倉城には、各要所に、写真を載せた説明の看板が設置されています。
「下」大手門跡
佐倉市市民体育館と佐倉中学の間にあり、この道を少し進むと佐倉城三の丸跡です。
■二の門跡
本丸から大手門にいたる第二の門で「二の御門」と呼ばれていた。
門内は二の丸といい、藩政を執る役所が置かれていた。
■二の門
写真は、城内設置の説明看板より転載。
二の門は、一の門の東方一直線上にあり、武器庫として使用された。
「左」三の門跡の説明看板
「下」三の門跡
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【出丸の土塁と水堀】
本丸跡の北側と南側には残存状態の良い出丸があり、これは、南側の出丸跡です。
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この池は江戸時代、かきつばたの名所であった。
天保年間、この池まわりで家老の娘をおもりしていた姥があやまって娘を池に落としてしまい娘はそのまま沈んでしまった。姥は困り果て身を投げたと伝えられ、以来「姥が池」といわれるようになった。
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