このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

備中猿掛城址
猿掛城は山陽道を抑える要害として重要であった
【所在地】
岡山県小田郡矢掛町横谷・倉敷市真備町()
【築城年】
元久2年(1205年)頃(定かではない)
【築城者】
武蔵国の武士・庄家長が源平合戦の軍功により備中の荘園を与えられ、この地に移り築城したと伝えられている(庄為助の説もある)
【城地種類】
小田川の右岸に聳える猿掛山(標高239m)に築かれていた中世の連郭式山城
【遺構】
堀切・土塁・本丸・二〜六の丸・寺丸・大夫丸・井戸跡
【指定文化財】
矢掛町重要文化財(平成8年4月1日指定)・倉敷市指定史跡(昭和58年3月1日指定)
【廃城年】
元和元年(1615年)
【沿革】
猿掛城は真備町と矢掛町横谷にまたがる中世以来の山城である。猿掛城築城のはじまりは東国の武将・庄太郎家長(しょうたろういえなが)がこの地に地頭として赴任した際に当初、幸山(こうざん)城(総社市所在)へ入ったが、防禦に不便として元久2年(1205年)ごろ猿掛山へ新城を築いて移ったことによる。猿掛城は庄氏が366年間にわたり備中支配の拠点として利用した後、天正3年(1575年)に毛利元清(もうりもときよ)が5千貫の領主として入城した。また、この城は天正10年(1582年)の高松城水攻めの際に毛利輝元(てるもと)の本陣となったことでも有名である。関ヶ原の戦いで西軍が敗れたことにより、元清のあとを継承した毛利秀元(ひでもと)が長府へ帰った後、慶長9年(1604年)、猿掛城に花房志摩守正成(はなふさしまのかみまさなり)が5千石で入城したが、元和(げんな)元年(1615年)の一国一城令で廃城となり、元久以来の名城も410年間で終局を迎えたといわれている。(文は一の丸(本丸)に設置の現地説明板より)
【城跡案内】
 矢掛町横谷字平林登山口から登ること20分で眺望絶佳な寺丸(60坪=198㎡)に着く。続いて5分ほど登ると三段になった大夫丸(180坪=594㎡)がある。これは天文23年(1554年)城代庄豊後守実近隠居砦の跡である。大夫丸で大手道から別れ、新設の西登山道へ入るのが近道で馬場を左に見ながら六の丸へ上り本丸の中まで城内散歩道がある。

 本丸から六の丸まで、南北延長約200m、東西幅約51m、山頂総面積約1町歩(10000㎡)に及ぶ城跡である。本丸は約300坪(990㎡)南端は深い堀切りにより弥高山系と完全に分離され、その掘りあげた土により本南端は土塁を築いて三日月形に囲み、堀切の深さをさらに強調している。表御殿のあった最大の三の丸の面積は約760坪(2508㎡)、東に大手門跡があり、中央に大井戸の跡もある。その西側には一段低く御長屋跡、三段になった倉庫跡がある。また、大手の東側から六の丸の北側まで馬場として調練場になっている。

 三の丸西北側には搦め手道があり急坂で約20分で平林口へ下りられる。郡境は倉敷市と小田郡の境で東が倉敷市真備町、西が小田郡矢掛町で矢掛町分は山裾を除き国有林として林野庁所管である。
 (文は、平林登山口に置いてある現地リーフレット、城図は本丸にある現地説明板より) 
■平林登山口を直進すると、行く手を遮るトタン製の扉があり、これはイノシシの侵入を防ぐために設置されているもので、大手道はこの奥となる
■トタン製の扉を開けることもできますが、右側に簡単な橋が架かっているのでこれを渡り矢印の方向に進む
【戦国の名城「猿掛城址」散策】
<寺丸〜大夫丸〜六の丸から一の丸(本丸)に至る>
▲寺丸(てらまる)
寺丸の由来〜延徳4年(1492年)、守護細川勝久が猿掛城を急襲した際、城主庄元資(しょうもとすけ)はかろうじて退避したが、永く庄氏を支援していた香西五郎右衛門一統は孤軍奮闘したすえ、城中にて切腹して果ててしまった。庄元資は香西五郎右衛門一統の功績を讃え、その慰霊のためにこの寺丸を築き、位牌堂を建てて冥福を祈った。

▲大夫丸(たゆうまる)
大夫丸の由来〜天文2年(1533年)、猿掛城主の庄為資(しょうためすけ)は松山城へうつり、備中半国の領主として、勢威隆盛を極めた。その際、為資は一族の庄実近(しょうさねちか)を猿掛城の城代として置き、これを守らせた。天文22年(1553年)、毛利元春の援助を受けた三村元親(みむらもとちか)軍と庄為資軍が猿掛城のふもと、現在の横谷・東三成で激突し、大合戦となった(猿掛合戦)。

しかし毛利元春の調停により、庄と三村は講和し、翌天文23年(1554年)三村家親(いえちか)の長男の三村元祐(もとすけ)が庄為資の養子となった。三村元祐が猿掛城主として入城したので、城代の庄実近は城の北側の郭へ退隠し、この郭を大夫丸と公称したといわれている。


▲六の丸跡
この六の丸から南方向に向かって、一の丸(本丸)まで6壇からなる郭が連なり、備中有数の山城の威容をよくとどめている


▲五の丸跡
前方は四の丸跡

▲四の丸跡
後に見える土塁のような、切岸状態の上部は三の丸跡


▲三の丸跡
最大の面積を誇るこの郭には、中央に井戸跡、東に大手門跡がある

▲大手門跡・井戸跡辺り


▲井戸跡

▲二の丸跡
奥側(南)が一の丸(本丸)

▲一の丸(本丸)跡
本丸南端は土塁が三日月形に囲む


▲本丸の土塁
後ろ側は、深い堀切となる

▲土塁上から下方の堀切を望む
樹木に覆われているため、堀切の状態がよく確認できませんが、堀切によって弥高山系と分断されている


▲土塁の上部

▲猿掛城跡から望む吉備真備公園
吉備真備(きびのまきび)を記念してつくられた吉備真備公園は日本の歴史公園百選の一つに選定

        

■真備町登山口から平林登山口方向の眺め。この道を前方に行った所に平林登山口がある
■平林登山口。乗用車の右横を奥に直進。後方は猿掛山で頂上一帯が猿掛城跡
■真備町登山口
■国道486号から福頼橋を渡り左(東)に折れ、川沿いに少し行くと平林登山口が右手にあり、此処から大手道を登り訪城(2013年2月)。真備町側にも登山口がある(地図は現地説明板に一部加筆の上、転載)
『猿掛城跡周辺』 『平林登山口から大手道へ』の案内
■小さな祠の手前の道を行くと大手道に出る

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