このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


大書院入館口
 この建物は史料館で、この史料館入口から入館し、大書院へ行くようになります。

大書院と二の丸御殿跡
 御殿跡は、平坦部に平面表示の工法で、平成14年(2002)に完成。樹木部分は本丸跡。

大書院上段の間
 大書院の中で最も格式の高い部屋。

篠山城の梵鐘
 この梵鐘は、4代藩主松平(形原)康信が、寛文12年(1672)に二世安楽を願って造り、城中の道場にかけていたものです。その後、京都の新熊野権現社や蓮華寺へと移され、大切に保管されていました。
 昭和58年(1983)、多くの方々の尽力によって310年ぶりに篠山へ還ってきました。大書院が復元されたのを機に、この場所で展示することにしました。
   大書院
 
南側から見た手前左より、井戸跡、二の丸御殿跡(平坦部の平面表示部分)、史料館(左)と大書院
◆篠山城に残る日本有数の貴重な遺構<馬出(うまだし)>の現存例◆
篠山城では、北(大手)、東、南の3ヵ所に出入口があり、この所を凹字形の堀と塀で囲み、城門への通路を複雑にしていた。
これが馬出と呼ばれている施設で、外堀の外側に作られた曲輪の一種である。現在は東馬出南馬出が現存しています。

大手門馬出
 三の丸跡から外堀(北外堀)越しに見た大手門馬出跡地。現在、たんば田園交響ホール、駐車場等となっている。

東馬出
 石垣をともなった角馬出と堀が残る。
下図地点より望む南馬出と南馬出堀
 
土塁造の馬出である。


【馬出】

 城の出入口を虎口といい、攻城戦の最前線となるため、強力に虎口の外側を守る必要から工夫された防御構造の一つが「馬出」という施設。

 虎口の前面、堀に架かる橋の外側に、防御・出撃の拠点となる堀と土塁で区画されたもの。もともとは、この内側に騎馬武者がそろって、打って出たことからこの名がついたともいわれる。馬出の形には、平面が長方形の角馬出し(篠山城は角馬出)と、平面が半円形の丸馬出の2種類がある。明治の廃城によって、馬出は交通の障害になるのでほとんどの城で取り除かれた。
▼土塁造りの「南馬出」を周囲ⒶⒷⒸⒹから見た状況

(現地案内板に追記)

三の丸より、外堀の土橋を渡った所の南馬出中央部、地点より土塁を望む。

地点より方向(西)を望む。右側の電柱が建つ所が馬出中央部。さらに、その右側(北)は南外堀となる。

地点より方向(西)を望む。
《徳川家康の命によって、西国の諸大名が動員されて築かれた「天下普請」の城》

三の丸跡(北側)から望む二の丸・本丸を囲む石垣と大書院。周囲には内堀が廻る
<正面入口から大書院まで、廊下門・表門・中門・鉄(くろがね)門と枡形虎口が続く>
【所在地】兵庫県篠山市北新町2−3 【別 名】桐ヶ城 【国指定史跡】昭和31年12月28日
               
     <アクセス>JR福知山線「篠山口」駅から神姫グリーンバス篠山営業所行「二階町」バス停下車→徒歩5分<訪問日>2017年7月再訪問       
【篠山城の歴史】
■篠山城は、慶長14年(1609)に、天下を磐石なものにしょうとする徳川家康が、豊臣方の拠点である大坂城を包囲するとともに、豊臣家ゆかりの西日本の諸大名を牽制するために、山陰道の要衝であったこの地に築いた城です。築城工事は、旧豊臣大名の経済力を弱めることを目的に天下普請とされ、山陰道、山陽道、南海道(近畿・中国・四国地方)など15ヶ国20大名が動員されました。
■城は、当時「笹山」と呼ばれた独立丘陵を利用して築いています。工事は、開始から1年に満たない短期間でほぼ出来上がるという突貫工事で進められました。笹山は全体が岩盤で出来ていたため、難工事の中での完成でした。篠山城の縄張は、築城の名手といわれた藤堂高虎がが行ったものです。堀を二重に廻らし、外堀の三方に出入口として馬出しを設け、防御に徹した城構えとなっています。天守閣は、城の完成を急いだことと実戦向きの城としたため築かれませんでしたが、二の丸には大書院に代表される御殿が建てられました。
■大坂夏の陣を経て江戸幕府が安定すると、篠山城は西日本の諸大名の押さえの城として位置づけられます。江戸時代を通して、幕府の信頼厚い譜代大名の4家が、藩主として次々と移ってきています(現地説明板より)
【篠山城郭図<現地説明板に追記し掲載>この鳥瞰図は、いわゆる「正保城絵図」の一つ「丹波篠山城之絵図」と、同時期の「丹波国笹山城絵図」を参考に、築城当時の様子を再現したものです。ただし、本丸、二の丸などの曲輪の名称については、現在の呼び方を採用しています。なお、大書院・史料館の展示では、築城当時の名称をそのまま用いています。二の丸には大書院をはじめとする御殿が建てられたのに対して、本丸には御殿等の建物は無かったようです。
      

〈築 城〉 慶長14年(1609年)の春、篠山城の普請が開始され、幕府は普請奉行として藤堂高虎、松平重勝ら5名を派遣し、工事を行う助役(すけやく)大名には池田輝政、福島正則、毛利秀就ら、西日本15ヶ国の20にのぼる諸大名が動員された。家康が竣工を急がせたため、秋には石垣が完成、年の終わりには城の建物もほぼできあがった。
〈城の種別〉 篠山という小山を利用した一辺約400mの平山城 
〈縄 張〉 中心部に本丸と二の丸を梯郭式に置き、それを三の丸が輪郭式に取り囲む縄張で、外堀の三方に出入口としての馬出(うまだし)を設けている。方形の城は出入口が弱いため、そこに手厚い防御施設である馬出を構えた。この馬出が篠山城の縄張の特徴となっている。
〈構 成〉 天守台・本丸・二の丸・三の丸・内堀・外堀・馬出
〈築城者〉 徳川家康の命による天下普請、藤堂高虎の縄張、西国15ヵ国20諸侯の助役。初代城主として家康の実子である松平康重が八上城から移り、松平氏三家八代と青山氏六代といずれも徳川譜代の有力大名に引き継がれた。
〈遺 構〉 建物は失われているが、深々と水を湛えた内堀・外堀、曲輪跡(本丸・二の丸・三の丸)、本丸・二の丸を囲む石垣、天守台、2つの角馬出(南馬出・東馬出)が残る。
〈現 況〉 平成12年に大書院復元、平成14年に二の丸御殿庭園開園(平面表示)。建物は全て取り壊されているが、城郭は全て昔のままの姿をとどめている。特に南馬出は、土塁馬出として全国唯一のもの。
【篠山城復元模型】(大書院・史料館展示。写真に追記し掲載)

※篠山城の曲輪呼称の変化

 篠山城の曲輪の呼び方は、築城当時と江戸時代中期以降では異なっています。( )内の表記は、江戸時代中期以降の呼び方です。
                 殿守土台(天守台)、殿守丸(本丸)、本丸(二の丸)、二ノ丸(三ノ丸)
※篠山の地名の変化~築城当初の史料には、「笹山」「佐々山」「ささ山」「筱山」「篠山」など様々な字が当てられていましたが、次第に「篠山」の字が多用されるようになりました(史料館説明文より)

参勤交代・大名行列

■大書院の歴史~大書院は、慶長14年の篠山城築城と同時に建てられたとされ、それ以後、幕藩体制が終わるまでの約260年間にわたって、藩の公式行事などに使用された。明治維新後は、いわゆる廃城令によって取り壊しの危機に直面するが、保存を願う人々の努力によって、城建物の中ではただ一つ大書院だけが残された。その後は、小学校や女学校また公会堂などに利用されていたが、昭和19年(1994)1月6日の夜に火災に遭い、灰燼に帰してしまった。
その後、平成12年(2000)3月に復元された。
■大書院の特徴~大書院は、木造建築としては非常に規模が大きく、現存する同様の建物の中では京都二条城の二の丸御殿に匹敵する建物。二条城の御殿は将軍が上洛したときの宿舎となった第一級の建物であり、大書院は一大名の書院としては破格の規模と古式の建築様式を備えたものといえる。
■大書院の規模~大書院を復元するにあたっては、古絵図、古写真、発掘調査等の総合的な学術調査が実施され、その成果に基づいて設計と建築が行われた。復元された建物は平屋建てで、北(妻側)を建物正面とし、屋根は入母屋造・柿葺(こけらぶき)となっている。東北隅には中門(ちゅうもん)があり、正面(北)には車寄、そしてその屋根は軒唐破風がついている。また、大書院内部には部屋が8つあり、その周囲を広縁が廻り、その外側には一段低い落縁が付いている。
■二の丸御殿庭園~復元は、江戸時代中期頃の古絵図をもとに平面表示の工法で、平成14年(2002)4月に完成
(現地リーフレットより)

【三の丸(南側)から望む二の丸、本丸を囲む石垣】
 左より二の丸石垣西面・南面、二の丸石垣(南面)と本丸石垣の中央に二ノ丸埋門跡、右端は本丸石垣と天守台
 【ありし日の篠山城】

(現地説明板に追記し掲載)

大手門馬出跡から見た大手門跡
 かつての大手門馬出跡から、外堀に築かれた土橋(大手門跡手前)を渡った所にあった大手門跡周辺の眺め。さらに後方には、大書院が建つ。

広大な外堀
 左写真の土橋から写した北外堀。外堀左側には現在、篠山市役所が建ち、右側は三の丸跡。

二の丸・本丸への北側正面入口
 ここから大書院まで、北廊下門、表門、中門、鉄(くろがね)門と枡形虎口が二重に設けられている。

広い犬走り
 石垣、櫓台など整備された北内堀跡。

北廊下門跡
 白い石畳の通路上に長方形の廊下門が建っていた。通路前方に置いてある低い表示物が立つ場所が表門跡。 

表門跡
 表門の石垣上には櫓門形式の建物があったと考えられる。

中門跡
 左に曲がると鉄門跡。

(くろがね)門跡
 二の丸北側に枡形を二重に設け、中門と鉄門がある。現在は門を入ると正面に復元された大書院がある。

二の丸埋(うずみ)門跡(二の丸側)
 二の丸南側に築かれ、門の上には多門櫓があった。埋門は非常時には埋めて遮断することになる門。

二の丸埋門跡(三の丸側)
 埋門周辺の石垣には、篠山城内で最も多くの符号、刻印があります。なかでも、埋門石垣南角に残る「三佐之内」の刻印は、篠山城築城時に普請奉行を務めた、池田三佐衛門輝政の名を印したものといわれています。

本丸石垣(南面)と内堀
 本丸石垣上には、隅櫓と多聞櫓が連結して本丸を取り囲んでいた。右端の石垣が天守台。 

本丸跡
 ここは、篠山城の最後の砦となる本丸跡です。築城当初は現在の二の丸が本丸、現在の本丸は南東の隅に、天守台が造られたことから、特に殿守丸(でんしゅまる)と呼ばれていました。
 本丸の周囲は天守台と南西隅・北西隅・北東隅の3ヵ所に2重の隅櫓を建て、間を多聞櫓でつないで内部を囲んでいた。
 
本丸に残る天守台の高石垣~内堀と犬走りが廻る
 天守台の大きさは東西約19m、南北約20m、約380㎡の広さがあります。天守台石垣は本丸内側からの高さ、約4m、外側の南と東側犬走りからの高さ約17mで、篠山城で最も高い石垣です。天守台下の新しい石垣の上が犬走りで、その石垣下が内堀。石垣は、滋賀・近江の穴太衆(あのうしゅう)によるもの。自然石をあまり加工しないで積む「野面積み(のづらづみ)」と、出角は「算木積み(さんぎづみ)」の工法を用いている。2017年7月再訪問時、この場所は内堀復元整備工事を実施していました。内堀は、明治になり篠山城が廃止されてから以後は、埋め立てられたリ、石垣が取り外されたり、大きくその姿を変えてしまいました。平成14年(2002)から、内堀を元の姿に戻そうと、内堀復元整備工事を継続的に実施しています(現地説明板、リーフレットより)

天守台石垣(本丸内側)
 天守閣は築城時に、江戸幕府の指示により、城郭が堅固すぎるとの理由で建築が中止され、代わって天守台南東隅に二間四方(4m四方)の1重の隅櫓が建てられた。

一の井戸
 本丸内の北側中央にあるこの井戸は岩盤を掘り抜いたもので、深さ約16m(内水深8m)で、掘るのに2年もかかったと伝えられている。井戸後方の低い石垣上には多門櫓が築かれていた。

国指定史跡 篠山城跡(ささやまじょう)

 徳川政権は、初代将軍家康から、十五代将軍慶喜(よしのぶ)まで264年間続いた。その長期政権を可能にしたのは、豊な経済力と諸大名の力を巧みにコントロールする強力な幕藩体制であった。徹底的な大名統制を行い、まず、一国一城令で、本城以外の城の取り壊しを命じた。さらに、武士の基本法である武家諸法度を制定して、大名同士の同盟や無許可での城の修理を禁止し、軍事力を奪った。さらに参勤交代の制度を導入。幕府は原則として、大名の生活の場を江戸1年、国元1年とし、外様大名の場合は4月を交代期として、2年に1回の割合で、江戸と国元を往復させた。この行列は、藩の石高に応じて随行する人数なども決められており、それにかかる費用はかなりの額にのぼった。華やかな大名行列の陰には、幕府による諸大名の経済力削減の目的が込められていた。幕府は大名から軍事力と経済力を奪うことで、強力な支配体制を築いた。

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