このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
左より、細川忠興・毛利秀元・小早川秀秋の大のぼり。
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▼石田三成陣跡(西軍の総大将)
行・財政の才能に優れ、秀吉に対して忠誠心が強く、豊臣家の安泰と後継者の秀頼を守るべく、打倒家康を誓って立ち上がる。豊臣五奉行の一人。関ヶ原が一望できる笹尾山に陣をかまえ※竹矢来を二重に張りめぐらし、前面に島左近、中間に蒲生郷舎を配した。しかし、激しく戦うが敗れる。敗走中、田中吉政の手によって捕らえられ、京の六条河原で処刑された。
(現地案内板に一部加筆の上、掲載)
道標
関ヶ原軍記
関ヶ原合戦に使われたホラ貝
関ヶ原合戦図屏風
〜展示物の一部〜
関ヶ原歴史民族資料館
▽東首塚
▽西首塚
▼笹尾山の石田三成陣跡
▼笹尾山の石田三成陣跡から決戦地を望む
▼決戦地(国史跡) 笹尾山のふもとの田畑が広がる中に標柱が立つ
▼徳川家康最後陣地(東軍の総大将)
◆JR関ヶ原駅構内に掲げられている東西両軍の主な武将
武将名の上下には家紋と推定兵士も表示
この他、数多くの貴重な歴史的遺産が展示されている。
関ヶ原古戦場
史跡めぐり
関ヶ原合戦の後、床几場で家康が西軍の武将の首実験を行い、その後、遺体を東西二か所に埋葬した。
豊臣五大老の筆頭。秀吉の死後は自ら天下取りのシナリオを描き、三成に反感をもつ武将たちを巧みに操り、覇権をねらう。家康は、はじめ桃配山へ陣を置いたが、戦況がよくつかめないため、十時頃「陣場野」とよばれるこの地に陣を進めた。最後まで東軍の指揮をした所で、戦いが終わってからは、敵方の首実験をした所である(床几場)
合戦勝利の三年後、慶長八年(一六〇三)、家康は征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開き、頂点に立った。
関ヶ原合戦の舞台
天下分け目の戦い
慶長五年(一六〇〇)九月十五日午前六時頃までに、東西両軍の主な武将が関ヶ原に布陣。
午前八時頃、井伊直政(東軍)が抜け駆けして宇喜多隊(西軍)に発砲、戦端が開かれた。
一進一退の攻防の中、正午過ぎに小早川秀秋(西軍)が東軍に内応し、大谷隊((西軍)に突撃、形勢は東軍優勢に転じる。西軍が総崩れする中、島津義弘(西軍)は敵中突破を敢行し、伊勢方面へ脱出。戦いは午後四時頃までにほぼ決着した。
西軍の総大将石田三成は、六千の兵を配し、関ヶ原が一望できるこの地に陣を構えた。
合戦に際し、三成は大砲を五門作らせ、笹尾山に設置した。
資料館には、関ヶ原合戦のジオラマが展示されていて、合戦の模様をドキュメンタリー風に見聞できる。また、関ヶ原ならではの歴史遺産が陳列されている。
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