このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

妹尾戸川家陣屋跡 / 伝 洲浜城趾

<所在地>岡山市南区妹尾

 妹尾太郎兼康は、一説では南区妹尾の地名の由来になったと言われている人物です。兼康公の母は瀬尾兼門(せおかねかど)の妹保子である。兼門は太治元年(1126)滅んだが、保子だけは鳥羽上皇の宮女として仕え、上皇の御子を宿していたため許されて、平忠盛(たいらのただもり)(清盛の父)に預けられ、上皇の御子を産んだと伝えられている。これが妹尾太郎兼康公である。妹尾太郎兼康は、13歳で平清盛に仕え、才・智・人に優れていたことから平清盛の無二の忠臣となり、三備(備前、備中、備後)の領地を任され、備中妹尾(今の南区妹尾)に洲浜城を築いたと言われています。兼康公は土木技術にも優れたものを持っており、高梁川を水源とした「湛井(たたい)十二ヶ郷用水」の整備は特に有名で、地元では開発領主として名を残している。数々の戦功をあげた兼康ですが、1183年10月14日、木曽義仲との戦いで討死したと言われています。

岡山市重要民俗文化財
 つちえの井戸
 妹尾は、児島湾に臨む有数の漁村でしたが、江戸中期の興除干拓によって、現在見られるような水田地帯に変貌しました。かつては海岸べりであったため、平地では塩水が湧き、飲料水は山側の限られた井戸から求めていました。この「つちえの井戸」は、良水の湧く共同井戸として、長年にわたりこの地区の人々の生活のよりどころでありました。今では水道が完備され事情も一変しましたが、かつては水桶を車に積んで町内を売り歩く姿が見られました。つちえの井戸の、その掘られた年代は不明ですが、共同井戸としては最も古く、妹尾の人々の生活ぶりを知るうえで大切なものです。昭和四十七年三月に岡山市重要民俗文化財に指定されました。(現地説明板より)

【沿革】
 
宇喜多家の武将で備前児島常山城主、戸川秀安の子・達安(みちやす)は、慶長四年(一五九九)の家中騒動で、宇喜多秀家と対立して主家を去り、翌年の関ヶ原合戦には、東軍に属し徳川家康に従って戦功をたて、その功により備中の都宇・賀陽両郡の内に於いて約三万石を与えられ、庭瀬に住した。(この地の領主となった達安は、撫川(なつかわ)城の一部を取り込む形で、新たに近世的な庭瀬(にわせ)城を築いた)。達安の子・正安は、寛永三年(一六二六)、遺領を継ぎ、次弟の安尤に三千四百石を与えて早島(早島戸川氏の祖)に、その下の弟の安利に三千五百石を分かち帯江(帯江戸川氏の祖)にそれぞれ陣屋(支藩)を置いた。正安は二万二千五百石を領して撫川城に居城した。その後、正安の嫡男・安宣(やすのぶ)は寛文九年(一六六九)、家督を相続し、弟の安成に千五百石を分かち与え、「妹尾(せのお)陣屋」を妹尾の洲浜(すはま)城跡に置いた。この安成を初代として、妹尾陣屋戸川家は明治維新まで続いた。

 妹尾は平家の大将の一人「妹尾瀬尾(せお)とも言う)太郎兼康」の領地であったと伝えられている。兼康は16歳で妹尾に入り城を築き「洲浜城」と称していたと言われている。兼康が居城したと伝えられている洲浜城はJR妹尾駅北側の山にあったといわれるが、明確な場所や城の遺構は不明。現在城趾と思われるところは、地元では「稲荷山」と呼んでおり、お稲荷様が祀られていた。このあたりは広々とした平野が続き、穀倉地帯をなしているが、かっては「吉備(きび)穴海(あなうみ)」と言う干潟で漁業が盛んに行われていた。
 写真は、郷土史研究グループ「妹尾を語る会」が、兼康を偲ぶことのできる場所を設けようと、この場所を居城跡と見立て、整備した。縦約6メートル、横約10メートルの柵や、旗、説明板などを設置。2012年10月14日に、「妹尾太郎兼康伝洲浜城趾完成記念式」が行われた。 

 笠岡小学校のあるあたりは、かつては堀の内と呼ばれ小田県庁の跡であり、もと三方を幅五、七メートルの壕で囲ってあった。以前は笠岡代官所跡であり字は小丸である。小田県庁は、明治四年(一八七一)十一月十五日に廃藩置県の布書によって設置された深津県が、明治五年(一八七二)六月五日には小田県と改称され、その県庁が笠岡に置かれた。当時小田県(備中・備後のうち東部五郡)のほか岡山県(備前)、北条県(美作)の三県が置かれていたが、うちでも小田県は約五十三万石の最も大きい県であった。明治八年(一八七五)には、小田県は岡山県に合併された。

※江戸時代に、戸川氏の陣屋が置かれた洲浜城は、平家の武将妹尾太郎兼康(妹尾兼康(せのおかねやす)。備中国都宇郡妹尾郷、現在の岡山市南区妹尾付近を本拠とした武士)によって、平家の全盛の頃に構築されたとされ、戸川陣屋井戸のすぐ北側が洲浜城の大手門があった所と伝えられている。この大手門の場所から小高い丘陵地帯となっており、頂上に向って三の丸・二の丸・本丸と続いていたようです。現在では、城跡さらに陣屋跡さえも破壊されてしまい、遺構として『戸川陣屋井戸』と、笠岡小学校(笠岡市)にある移築された『小田県庁門(戸川氏陣屋門)』が残るだけとなっている。

【戸川陣屋井戸と洲浜城跡】

《妹尾陣屋付近》


小田県庁門として移築された戸川氏陣屋門

※井筒(いづつ)とは、井戸の地上部分に設けた円筒状あるいは方形の囲み。

この井戸は、妹尾の旧領主(戸川氏)の陣屋にあった井戸。明治になり陣屋が廃止された後も飲料水の不足に悩む土地の人々が利用してきたもので、当時の形態をよく伝えている。妹尾の土地柄を知る文化財として、昭和四十七年三月二十四日、岡山市指定有形民族文化財に指定された。この井戸の後方に、洲浜城の大手門があったと伝わる。

妹尾戸川家陣屋跡は、
「井戸」と「陣屋門」に面影を留める

伝 洲浜城趾

【妹尾戸川家陣屋跡・洲浜城趾周辺図】

井筒は、花崗岩の切石を一辺一、二二メートルの正方形に組み合わせて築かれている。また、柱間には延石を敷き詰め、腰高の礎石とともに水回り良くしつらえている。
井戸は覆屋と井筒とで構成されている。覆屋は、四本柱(栗材)に入母屋造り瓦葺の屋根を載せた単純な建物。柱は長辺二、八二メートル、短辺二、六二メートルとやや長方形に配置されている。

旧洲浜城内と伝わる、
盛隆寺にある戸川公墓地

笠岡代官所跡
 笠岡は、慶長五年(一六〇〇)に徳川氏の直轄領となり、元和五年(一六一九)に備後福山の水野氏の所領となった。

 元禄十一年(一六九八)には、再び幕府の直轄領となり、元禄十三年(一七〇〇)五月、笠岡に初めて代官所が設けられ、以後幕末まで四十二代百七十年の代官支配が行われた。

■陣屋町■ 幕府の一国一城令により、岡山では城郭を構えた城下町は、岡山・津山・松山(高梁市)にかぎられた。大名でもそれ以外のものは陣屋を構えるにとどまり、旗本や大名の家老も知行地に陣屋をおいた。この陣屋を中心に形成された町場を陣屋町という。大名の陣屋町としては、美作の勝山・備中の新見・成羽・足守・岡田・浅尾・庭瀬・鴨方などがあり、旗本の陣屋町としては早島(戸川氏)・妹尾(戸川氏)・撫川(戸川氏)・井原が代表的なものである。これらの陣屋町は、陣屋を中心に武家町・町人地・寺社が計画的に配置されており、小規模ではあるが城下町と同じような空間構成をとっている。ただし、武家地と町人地を囲む惣構えの堀などは形成されないことが多い。
(山川出版社「岡山県の歴史」より)

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