このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

国指定史跡
志布志(しぶし)城(内城)跡
【所在地】鹿児島県志布志市志布志町
 
志布志城(内城)大空堀

【城の変遷】
 志布志城とは、内(うち)城・松尾城・高(たか)城・新(しん)城の4つの中世山城の総称であり、その中でも内城は、志布志城の主体郭である。現在、高城は宅地化、新城は中学校用地となっており、内城と松尾城に遺構が残る。
 最初は1つの山城であったが、しだいに規模を拡大し4城で構成されるようになったと考えられている。肝付(きもつき)氏の没落による天正5年(1577)の島津氏初代地頭、鎌田出雲守政近まで、およそ400年間の豪族の興亡の歴史を繰り返している。

【築城の歴史】
 志布志城(内城)の正確な築城年代は不明だが、約670年前の西暦1336年には存在していたことが記録に残されている。
 南北朝期までは、本丸と矢倉場といわれる曲輪のみであり新納(にいろ)氏の時代に中野久尾(くび)・大野久尾と拡大し、内城本丸の山下に居館を置いた。戦国期に現在見られるような直線連郭型式の山城となり、常に当地方の支配者の居城であったが、徳川幕府の一国一城制によって廃城となり今日に至っている。
【立地と環境】
 内城は北東から南西に延びた細長い丘陵の先端部に立地しており、北東部のみ台地に繋がっているので、ここに深い堀切を設け、大地と丘陵とを切り離している。そして細長い丘陵に5つの曲輪を直線的に並べ、各曲輪は互いに空堀によって区切られている。

【構成と性格】
 志布志城(内城)には志布志城五口と称して大手口・西谷口・沢目記口・小渕口・向川原口の5つの入口があるが、この他に留城戸一つがある。

 空堀は、丘陵を横断する5つの大きなものと、これに直角に交わり丘陵と並行して長く続く2つとから成っている。

 曲輪は、深堀で仕切った上、さらに浅堀で2つに分割し、浅堀の中央付近で両側の曲輪の虎口に繋がるというのが基本である。

 本丸(曲輪3)の土塁は大きく、北の隅は大きく張り出し、高さ4メートルの櫓台となっている。

 中野久尾の両曲輪とも二段で、曲輪5(A)の虎口は中仕切りの堀底から登り、同(B)は四面とも土塁で囲まれていて、南西のみ空き、坂虎口となっており、これを守る土塁が張りだしている。ここが当城で最も手がこんでいる。

 大野久尾の曲輪は農道で中仕切りの空堀が埋没している。

【現 況】
 中世の新納氏200年間の居城の守護神である三宝荒神が本丸跡に、また、新納家始祖新納時久公の墓が矢倉場の旧新納家墓地跡に残っている。
 この内城は、空堀の規模が大きく縄張も明快で、港・河口・街道に望んで望遠観察にも適している。また、中世城下町の存在も予想されており、伝承にも恵まれた、南九州でも有数の山城である。

【発掘調査】
 中国産の陶磁器をはじめ、タイなどの東南アジアから中国南部地域の陶器、国内各地の陶器が出土している。また、明を中心とした中国の銭貨のほか、朝鮮や琉球の銭貨も出土。
(文、写真は、現地案内板と現地パンフレットより作成。訪城日/2017年11月)


志布志城(内城)拡大写真
(鹿児島城<鶴丸城>本丸跡の「鹿児島県歴史資料センター黎明館」にて)



志布志城(内城)跡復元模型(「鹿児島県歴史資料センター黎明館」展示)
 この模型は、内城が最も活気を呈した戦国後期の天正2(1574)年正月頃、肝付氏方の軍衆が勢揃いした状況を想定し復元したものです。なお、居館等は想像復元です。
 曲輪は巨大な空堀で仕切られ、これらを囲むように長大な横堀がめぐる内城は、城主も救仁院(くにいん)氏から楡井(にれい)、島津、新納氏等と交代し、永禄5(1562)年には、肝付氏が大隅経路の拠城としました。天正5(1577)年になって肝付氏は退却し、かわって島津氏が地頭館(現志布志小学校)を置きました。


ここからは、内城を巡ります。
 
要所には、コースマップが配置されているので、迷うことなく散策することができます。場所によっては
枝や落葉が覆っていて歩きずらい所もありますが、整備される方のご苦労を思うと何でもない事です。
(散策コースマップは現地説明板より)


(現地説明板より)

 

内城跡入口
 中央の細い道の突き当りを左に行くと内城。突き当りの右側は、志布志小学校の裏門。志布志小学校は、藩政時代志布志地頭政治の中心となった地頭仮屋跡。

矢倉場跡(縄張図 曲輪1)
 矢倉とは、弓矢を収める倉庫のことであり、同時に防御のための施設をも指す用語。このことから、この曲輪には、防衛のための建物が存在したと推測されている。
 この曲輪は東西で上下段に分かれた高低差3,5mの構造となっており、発掘調査によって、柱穴や土坑、溝跡などが検出された。また、中国産の磁器、備前や瀬戸の陶器、土師器などが出土している。



矢倉場東側の空堀

内城本丸登り口跡
 ここから本丸まで堀底道が続く。



本丸下段土塁跡(縄張図 曲輪3下段)

本丸上段土塁跡(縄張図 曲輪3上段)



本丸上段の三宝荒神
 城主一族の氏神、守護神として祀られた火の神の社。



本丸の切岸

本丸周辺の堀切
 空堀には、形態の違いによってタイプが数多くあり、竪堀、横堀、堀切などがある。堀切は、敵の侵入や移動を防いだもので、城のある周辺の峰や尾根を直線的に切ったものである。



本丸周辺の堀切
 南九州の特徴であるシラス台地を大きく鋭角に切り込んだ空堀。切岸は、ほぼ垂直に削られ断崖絶壁となっている。


中野久尾の虎口(縄張図 曲輪5上段)

中野久尾跡と土塁



大野久尾と中野久尾を仕切る空堀

大野久尾
 左側の道を奥に進むと大野久尾虎口に至りますが、台風による倒木で道がふさがれており、ここで断念しました。この時点で散策時間は2時間を過ぎていました。



松尾城登り口
 内城散策で体力を使い果たし、残念ですが登城はあきらめました。

(右)広域地図
志布志城へは以下の交通手段で訪問しました。
A鹿児島中央駅(桜島口〔東口〕)より鴨池港行きバス(6:35発)乗車。
B鴨池港(7:10発)から鴨池・垂水フェリーにて垂水港まで乗船。
C垂水港(7:56発)から路線バス(三州自動車)にて志布志港入口行き(あすぱる大崎経由)に乗車し、約1時間40分後、志布志バス停下車。
その後、JR志布志駅舎内の観光案内所にてレンタサイクルを借りて訪城。
帰途も行きと同じ逆ルートで鹿児島中央駅に戻りました。
(出発時間は2017年11月現在)


 
 内城の登城口までJR日南線志布志駅から徒歩20分ですが、訪問時は、志布志駅舎内にある観光案内所のレンタサイクルを
 借りて訪問(観光客は無料でした) 駐車場は、内城入口近くにある平山氏庭園前に、観光用の駐車場が整備、トイレもあります。
(志布志まちあるきマップは現地案内板に追記)

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